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日誌

フォーラムの振り返り

3月5日に中京青少年活動センターにて、「不登校・ひきこもりを考える京都フォーラム」が開催されました。
私も登壇者のひとりとして参加しましたので、その時の振り返りをブログに書きたいと思います。


参加者数はスタッフや報道関係も含め、約60人という結構な数。
本番直前まで会議を繰り返し、「あ!これ決めてない!」なんていう事態も多々あったので、始まる前はかなり不安でしたが、参加者の方々の感想を見ていると、良い問題提起と対話ができたのではないかと思います。
全体の雰囲気はまた動画を編集してブログにあげたいと思いますので、今回は私個人の考えたことを書きたいと思います。
私はこの1年、実はずーっと葛藤し続けていました。
それは、修士論文執筆のため知誠館に初めて訪れたとき、生徒に「なんで学校に行かんくなったん?」と聞いたところ
─じゃあ、木下さんはなんで学校に行き続けることができたんですか?
と問い返されたところまでさかのぼります。
その問い返しを受けたとき、私は答えることができませんでした。
なぜなら、まさかそんなこと聞かれるとは思ってもみなかったし、自分がなんで学校に通っているか考えたこともなかったからです。
そこから、修士論文を書くために、自分がそんなことも考えずに、不登校を問題だと捉えていたことの反省のために、学校の制度や文化に対する生徒たちの鋭い感性を学ぶために(自分のためばっかりやんけ!)、学校に通っていた理由や意味を考え続けました。
その時に、何度も生徒たちや塾長、教授と対話を重ねました。
言葉にしては壊され、言葉を作り直してはまた壊され…そのプロセスの中で、語る術と言葉を少しずつ身につけていった気がします。
結構いろんな角度から考えました。両親、きょうだい、友達、教師、成育歴、今の環境…。
修士論文を書き終える頃には、ある程度自分の中で納得のいく言葉で語れるようになっていました。
しかし、知誠館で働き始めて、また新しい角度から考えてみるきっかけに出会ったり、そもそも自分はこれで言葉にできたってことにしていいんかな?と考えることで、自分が全然納得がいっていないことに気が付きました。
やっぱり、自分の中で「学校に通っていた」という事実は変わらないし、その中で得たものが確かにあると思います。
「何も」考えず学校に通ってたわけじゃない。学校の複雑な人間関係や規則にもまれながら生きてきた。
でも、それを今どう活かしたらいいかわからない。そもそも得たものってそれなんか。
そんな葛藤が私の中にはあります。
だから、「学校なんかいかんくていいよ」とは言えません。
また、知誠館だけでなく学校という環境も見てきたからこそ、生徒には知誠館の中でうまくいっている状況に満足してほしくないと思っています。
この葛藤をどうにかするには、やっぱり1年前と同じようなプロセスを踏むしかないんでしょう(あーしんど)。
でもだからこそ、学校に通い続けている/いた人も、学校に通っていない/いなかった人も一緒に考え続ける必要があるんだと思います。
とまぁ、こんなことを振り返りながら考えていたんですが、もうひとつ考えたことがあります。
それは、同じ登壇者の藤原君が言っていた
─みんな「学校」を問題の中心にしすぎている
という言葉から。
もしかすると、私も「学校に通っていた」自分という、「学校」フィルターを通した自分を考えすぎなのかも─。
「学校」から離れて社会人として働き始めてなお、「学校」とのつながりを断ち切れないでいる─。
こう考えると
「自分がこれからどう生きていくか、何を成しえたいか」
を考えるときに、「学校」ではなくもっと大きな「社会」というフィルターを通して自分を省みることが必要なのかもしれません。
ありがとう藤原君!ちょっと考え直してみる!
って言ってもまだまだわからんことがいっぱいで、現実は絶えず動き続けてて…
頭が爆発しそうですが、とりあえず今のところ、フォーラムで私が考えたのは以上のようなことです。
また言語化できたことがあったら、ちょいちょい載せてみます。