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日誌

参加するということ

ある生徒に質問したことがあります。
アウラって、A君にとってどんな場所なん?
その後、会話は以下のように続きました。


A:「ペースメーカーみたいなところですかね。」
 私:<それどういうこと?>
A:「なんか、僕よりつもちょっと前を走ってるんですけど、僕のペースをしっかり守ってくれてるていうか。速く走りたいときはペースを上げてくれるし、ゆっくり走りたいときはペースを落としてくれるみたいな」
 私:<なるほどな。A君が追い越すことはないん?>
A:「うーん…。まぁそれはないと思いますけど、でもそれもたぶん認められると思います。」
この会話に他の生徒も入ってきて、それぞれが自分たちにとっての「アウラ」を語ってくれました。
私がこの会話から感じたことは、生徒たちがそれぞれ自分たちなりにアウラのことを意味づけながら生活しているということでした。
それは、生徒たちの日常の中にアウラが埋め込まれているということにつながります。
生徒たちはアウラという場に参加(participate)しているのであり、アウラという場で主人公として生きているのです。
固有の意味づけを与えるということが主体性につながる、あるいは主体性そのものなのかもしれません。
また、こうして身についた主体性は、日常の中での広い意味での学習だけでなく、狭い意味での教科の学習の中でも活きてくるものだと思います。
もっと大きく言えば、これからの人生を歩む中でも活きてくるものだと思います。
それは何も不登校を経験した生徒のみに必要なことではなく、何も考えないまま学校に通い続けていた自分にも必要なことだと言えます。
「主体的に生きる」、簡単なようで難しいことですね…。
何やら話し合っている様子