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日誌

言葉の重み

先日、若者のリテラシーの問題に触れましたが、今日はその続きです。
言葉には、質量感があると言われています。
いわゆる「言葉の重み」というものですね。
この言葉の重みが次第に失われつつあるのではないか?という指摘が、若者のリテラシーに関するテーマなのです。


言葉の重みは、その言葉の背景にあるその人の生活に支えられています。
言葉というものは、ソシュールの言うようにあくまで一つの記号ですが、そこにある特定の意味が埋め込まれているわけです。
言語学の世界で、シニフィエとシニフィアンと呼ばれている概念ですね。
そしてこの言葉を介した意味が、個人の生活や経験の中から見出された意味と接合する時、人はその言葉を本当の意味で習得することになるわけです。
だから言葉の習得は、個人の生活に支えられていると言えるのです。
ところが、モノや情報が大量に溢れてしまうようになった現代社会においては、言葉が個人の生活に十分接合しないまま、言葉だけが上滑りしながら行きかってしまうようなことが生じてしまいます。
そうなると言葉のやりとりはあるものの、どこか相手と繋がってないような感覚を抱いたり、わかったような気になるものの、どこかしっくりこないような理解にとどまっていたり、ただいつの間にか時間だけが通り過ぎていくような生活感に苛まれるようになったりするのではないでしょうか?
言葉の重みを取り戻す、このことを私たちはとても大切に扱います。
不登校やひきこもりの経験を持つ若者たちが、厳しい状況の中から大きく変容していくためには、彼らの語りがとても大きな力となりえるからです。