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日誌

どうして「森」なの?

「アウラ学びの森」
どうして、「森」というコトバを、あえて私たちは使うようになったのか?
今回は、その考えを少しお話ししてみたいと思います。


学校でもない、塾でもない、あるいは家でもない、そんな空間を作りたいという発想で学びの森は生まれました。ここはオルタナティブ(もう一つの)スペースとしてデザインされたのです。
90年代後半、私たちの社会は大きな時代のうねりを迎えることになります。
バブルが弾け、震災が起こり、世紀末の不安の中で地下鉄サリン事件が象徴的に生じました。
成長路線を走り続けてきた私たちの社会では、今までの価値が揺らぎ始め、がんばっても仕方がないんじゃないかというニヒリズムが徐々に蔓延しつつありました。
そんな中、教育の世界でも、もはや大人たちが「こう生きて行ったら大丈夫」っていう道を子どもたちに示すことが大変難しくなっていったのです。
こうした時代の流れの中では、子どもたち自身が自分の答えをいかに作っていくことができるのかということが重視されます。そしてそんな能力をいかに磨くことができるかということが問われるようになっていきます。
これまでのように決まった答えにいかに適確に到達できるかではなく、自分たちの答えを作り出していける能力、問題をいかに自分なりに乗り越えていけるかという能力、自分以外の考え方をどれだけ理解し受け入れようとできるかという能力。
これらは従来の学力と区別され、「コンピテンシー」とよばれるようになっていきました。
そんなコンピテンシーを育てるための絶対条件、それが学習者主体の学びの環境だったのです。
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従来の教室は「教えること」を前提にデザインされた機能空間です。
そうではなく、「学ぶこと」を目的にした空間はどうデザインすればいいのだろう?
そんな問いの中から学びの森は生まれたのです。
それは1997年頃から検討を始め、2000年に一つの形として表現されていったのです。
今多くの大学がこれまでの図書館を見直し、新しい自律学習空間へとリフォームをしていますが、これは「ラーニング・コモンズ」と呼ばれる形態で、まさに私たちの学びの森と重なるコンセプトです。
でもこういったスペースがもてはやされるようになったのは少なくともここ10年以内のことであり、私たちの試みの方が先行してたんですね。
「森」、それは「協働」のシンボルでもあります。
均質な者ばかりが集まるんじゃなくて、勉強が得意な者もそうじゃない者も、意欲の高い者もさほど高くない者も、年齢の高い者も幼い者も、みんなが自分の課題に向き合いながら共に集い学び合う。まさに様々な植物や動物たちを育む森のイメージは、そんな私たちの思いにピッタリだったのです。