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日誌

ラウンドセッション(森の出会い場)

今日、知誠館では、ラウンドセッションが行われました。
池田先生が、大学というところがどういうところか、また、そこに通う大学生はどんな生活を送っているのかなどのお話をされました。
生徒のみんなと一緒になって、興味深くお話を拝聴しました。
池田先生のお話に対して塾長が、「大学はいろんな人の考えてることを知る場。そのいろんな人の考えてることを知るっていうことが、教養っていうものかもしれん」という言葉をぽろっとこぼされたのが印象的でした。


森の出会い場(池田先生)
そしてその後、塾長が池田先生に話していらっしゃるのを聞くともなしに聞いていると、こういったことをおっしゃっていました。
「池田先生の話は、ひょっとしたら知誠館の生徒のみんなには難しかったかもわからん。それは池田先生の話には一つ次元が違う、俯瞰的な視点があるから。でも、そういうちょっと難しい、俯瞰的な話を聞くことって大事やと思うんや」
塾長がその場でおっしゃった言葉とは異なるところもあるかもしれませんが、このような内容だったかと思います。
その発言と、先ほどの塾長の「いろんな人の考えてることを知るっていうことが、教養っていうのかもしれん」という言葉とが、私の中で、隣り合わせの2つのパズルのピースが同時にぴたっとはまるかのように、ふっとつながりました。
そこで、最近読んだ本の中にあった、「自分が何を知らないのかを知ることが学びである」という言葉を思い出しました。
自分がすでに知っている次元、視点、言葉で語られた内容は、分かりやすくはあっても、全て自分が知っている「枠」の中に収斂されてしまいます。そこから新たな学びや気付きに発展することは、おそらく少ないでしょう。たとえ新たな学びや気付きが存在したとしても、それは感動的なほどの衝撃を伴う学びではないのでは、と思います。
そうではなく、自分がまだ知らない次元、視点、言葉で語られた内容を、「自分はこれをまだ知らない」と認識することによって、新たな、かつ感動的な衝撃を伴う気付きや学びが発生するのではないかと思います。
今思えば、私自身が感動した、あるいは衝撃を受けた授業や書物は、決して私の知っている次元や視点、語彙なんかでは語り得ないスケールのものだったように思います。
(いやはや、今自分が気付いたことに合わせて記憶が修正されている可能性も無きにしも非ずなのですが…)
仮にも教育者である以上、生徒と同じ目線で物事を見てみることも大事。一方、生徒とは一つ違った次元で物事を考えることも大事。生徒の伴走者であるとともに、生徒のよき先達であれるよう、頑張らねばなあと思う所存です。
…と、今日のラウンドセッションで思ったことを、つらつらと書いてみました。
私の記事恒例の尻切れ蜻蛉状態ですが、これで終わりにしたいと思います。
お話をしてくださった池田先生、何気ない言葉でご教示くださる(いや、私が勝手に教示されたと思っている、とも言える)塾長、ありがとうございました。