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日誌

リテラシーと識字教育

京都女子大学の岩槻先生が、知誠館の見学に来られました。
岩槻先生は、社会教育がご専門で、その中でも特にリテラシーと識字教育について研究されておられます。


先生とは、たまたま大学で開催されていたドイツにおける若者支援のための社会教育に関する勉強会で同席したのがご縁のはじまりでした。その後、私のまとめた文科省の研究報告書を送らせていただいたところ、その内容があまりにも先生の研究領域と重なりを持っていたという返事が返ってきたのです。そして、それが今回の訪問につながりました。
識字教育とは、書き言葉の習得をその目的としています。
話し言葉は使えても、書き言葉の使えない人のために読み書きを指導するのが識字教育の基本です。
識字教育と言えば、ブラジルのP.フレイレが大変有名ですが、当時まだまだ発展途上だったブラジルには、書き言葉を自由に使えない人たちがたくさんいました。
そんな彼らに、識字教育を通して書き言葉を手に入れてもらうこと、それはまさに自分たちの文化を手に入れることであり、自分の人生を自分の手で描くということに他ならなかったのです。
フレイレは、そんな活動を通して書き言葉の大切さを主張したのです。
この岩槻先生は、フレイレの研究社ではありません。日本における識字教育の研究をされている先生です。
日本における識字教育は、在日外国人たちや被差別部落のお年寄りたちがその対象でしたが、いまではそこに外国人労働者も加わってきていると言われます。
そんな彼らに、日本人のボランティアたちが中心となって、個別の識字教育が展開されているそうです。
しかし、識字教育はこのようにある特定の条件を持った人たちのための課題として存在するのでしょうか?
これが岩槻先生の視点です。
先生は、そこにリテラシー概念(読み書き能力)の拡大を試みます。
イギリスにあるニューリテラシー研究所で1年間学ばれた先生は、リテラシーの概念が単に読み書きの能力にとどまるものではないことを確信されたといいます。
つまり、リテラシーとは絶えず変化する社会と個人とのアクセスに関する能力であり、その存在は絶えず両者化の関係の中にあるものだと。
知誠館においては、不登校やひきこもりの経験を持つ若者たちが、自分たちのライフストーリーを言語化するセッションをおこなっています。
「つらい」としか言えなかった過去を、自分の言葉で違ったストーリーに組み替えていく作業です。
しかし、最初は彼らの中に言葉がないのです。
「つらい」という言葉しかないのです。
だからまずは、彼らが自分の言葉を獲得する作業から入ります。
そしてやがて、言葉が語りとなって、ストーリーを帯びた物語になり、それが今度はドラマや伝説となって他者へと伝わっていくのです。
そうなると言葉は力を持ち始めます。
力を持って社会をも動かすとフレイレも主張しました。
知誠館の試みを通して、全国初となる「フリースクール認定制度」が生まれたのも、その一つの表れのように思います。
「若者が言葉を失いつつある」
メールやラインで言葉が頻繁にやり取りされている実態とは裏腹に、人と人とがつながれなくなってしまっている。
どこか空しく、どこか孤独を拭い去ることのできない生活が繰り返されています。
私たちは、たくさんの言葉に包まれているわけですが、どこに自分の言葉を見つけていいのかが分からなくなってしまっているように思います。
だから「若者とリテラシー」というテーマはとても大事なテーマだと思うのです。
私は、不登校やひきこもりという経験を持った若者たちの教育に関わっているわけですが、彼らを通して見えてくるもの。
それは、彼らだけではない、多くの若者たちが自分の言葉を見つけられなくなりつつあるそんな時代の流れなのかもしれません。
「これからもいい議論を」
という言葉でわかれた私たちですが、かれこれ5時間ほど密度の高い時間が流れていたのでした。
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