ハルマチにいく目的は?
どうも、学びの森のキノシタです。
現在2学期の保護者面談の真っ最中でございまして、着慣れないスーツ姿でこのブログを書いております。
今週の月曜日から<教養講座(身体)>が始まりました。
この前亀谷先生がブログでも紹介してくれていたやつであります。
※過去のブログはコチラ→『「ある街の営み」学びの森 meets ハルマチchapter YAGI』
この講座は僕の中で、あるいは学びの森としても、結構チャレンジングなものとなっております。
今回は、今までの講座ではつくれなかった、空間的・時間的な「幅」があります。
学びの森という空間、そこで流れている時間は、「学ぶ」という活動を目的としています。
また、それらは同じ「学ぶ」という活動を目的としている学校と比べると、少し幅があると思うんです。
学びの森という空間は、学校の教室とはまた違うしつらえになっていますよね。
教室のいたるところに植物があったり、机の形も色々だったり、Wiiがあったり…その他にも幅につながる色々な仕掛けがあります。
そんな空間だから、そもそも○○とは?その意味は?みたいなことをじっくり考える/対話する時間もつくれると思うんです。
それでもやはり、大きな枠組みで考えると、あんまり学校と変わらないのかな?と感じる瞬間がありました。
それは中学生たちが定期テストを受験していた時期のこと。
みんな「嫌やぁ」とか「うげぇ」とか言いながら勉強していました。
僕はその光景が見慣れたものであると同時に、”学びの森での光景”となると違和感も感じました。
そこである生徒に、何のために勉強してるん?と問いかけました。
その生徒の返事は、やっぱりこの社会で生きていくにはある程度学力がないと将来の選択肢が無くなるからですかね、というものでした。
「勉強」の定義はさておき、生徒の考えは確かに一理ある。
というか、ほとんどみんなそう考えてるんじゃないかとさえ思いました。
でも、それってホンマなんやろか?
勉強しないと→小中学校の定期テストで良い成績を取らないと→高校/大学を受験するというレールに乗っからないと→そういう時間軸に合わせられないと、選択肢って無くなるんやろうか?
学びの森という空間や時間って、そういうののために存在するんかな?
もっと色んなことを感じたり考えたりするために存在するべきなんちゃうかな?
こんな問いが自分の中で巡ったのです。
そんなとき、僕が個人的にハルマチで過ごした時間から考えたことを思い出しました。
※過去のブログはコチラ→『”「モノ」から”学ぶ』
これを読み返してみると、やはり同じようなこと(↓)を書いていました。笑
―今の社会は、小学校→中学校→高校→大学→就職…と、ある時間軸の中でベルトコンベアーのように振り分けが進んでいるような気がします。
それって「人間らしさ」とか「生きてる」とか「生活」というのとは、全然違う時間軸な気がしてなりません。
僕が今生徒やスタッフのみんなと過ごしたいのは、後者のような時間軸ではなかろうか?
だから今年度の<教養講座(身体)>では、ハルマチという学びの森に無いものがたくさんある空間で、丸一日という今までに無かった時間で、活動してみます。
そして、ここが重要!!
”そこで体験したことは、自分にとってどんな意味があったのか?”を徹底的にみんなで考え、ことばにしてほしいと思っています。
もちろん生徒だけでなく、スタッフも含めて。
これが講座の目的であり、そのプロセスを一緒に歩むことで、この講座の目的そのものや、カリキュラムのあり方、今の学びの森の空間的・時間的な意味も問い直したい。
そういう意味で今年度は「チャレンジング」なんです。
そして先週の月曜日、実際にみんなで活動をしてきました。
どんな体験をしたのかは、現在亀谷先生がブログを書いてくれているので、そちらをご覧ください!
今後の講座はどうなっていくのか!?
まったくわかりませんが、ひとつだけ言えるのは・・・
保護者面談のときにブログ書いたら、頭ちぎれそうになる。
もう帰ります!味の濃いものが食べたい!
では、また~