森の語り場~田中のムムム
知誠館では、ここに通う子どもたちが、自らの生きてきた道、「ライフストーリー」を塾長のインタビュー形式で語ってもらう「語り場」を毎月設けています。
「語る」ためには自らの過去をある程度客観視する必要があり、それを言語化することによって振り返り、改めて過去を現在の自分が意味づける。それをほかの生徒たちの前で語ることで彼らも共有し、聞いている側も自らの過去とひきつけて話を聞き、考える機会にしてほしい…そんな意味があるのかな、と考えております。
先日、ある男子生徒の語り場を行いました。
その子は中学3年生、この春から知誠館に通い出しました。
ほかの生徒からは「大人っぽい」「勉強好き」「いろんなことを知ってる」と評されるA君ですが、話を聞いていくうちに、「こんなA君もいたんだ!」と驚くようなエピソードもしばしば。
幼稚園から小学校、中学校での話を聞く中で私が印象的だったのが、A君が「自己管理ができていない」という言葉で中学生時代の自分、そして今の自分を括っていたことでした。
塾長のインタビューによってひとつひとつ過去を紐解き、自らの過去を振り返る言葉をここで蓄積させていったからこそ、その言葉が出たのかなと思います。
ここで彼の言った言葉、「自己管理ができていない」という点に対して、それがいい、悪い、といった評価はありません。ただ、その言葉が「出た」ことに意味がある、と言いますか。
その言葉を、インタビュアーである塾長は拾い上げます。
「『自己管理ができてない』ってA君は言ったけど、そこをどうしていくのか、それがカギになるかもしれへんなぁ」
その子がこの場で発した言葉の蓄積の中で、その子自身が気づいた自分を括る言葉に反応し、塾長の言葉で言い直すことによってその言葉を改めて意味づけ、キーワードに昇華する塾長。
こういったプロセスは、この語り場をその子にとってのこれからに意味づけるための仕掛けであったりもするのかなぁ、などと思ったりもして…
どこまで塾長が意識しているのかは不明なのですが、さすが一筋縄ではいかない塾長の「語り」の引き出し方に、ムムムと唸るのでした。
「語る」ためには自らの過去をある程度客観視する必要があり、それを言語化することによって振り返り、改めて過去を現在の自分が意味づける。それをほかの生徒たちの前で語ることで彼らも共有し、聞いている側も自らの過去とひきつけて話を聞き、考える機会にしてほしい…そんな意味があるのかな、と考えております。
先日、ある男子生徒の語り場を行いました。
その子は中学3年生、この春から知誠館に通い出しました。
ほかの生徒からは「大人っぽい」「勉強好き」「いろんなことを知ってる」と評されるA君ですが、話を聞いていくうちに、「こんなA君もいたんだ!」と驚くようなエピソードもしばしば。
幼稚園から小学校、中学校での話を聞く中で私が印象的だったのが、A君が「自己管理ができていない」という言葉で中学生時代の自分、そして今の自分を括っていたことでした。
塾長のインタビューによってひとつひとつ過去を紐解き、自らの過去を振り返る言葉をここで蓄積させていったからこそ、その言葉が出たのかなと思います。
ここで彼の言った言葉、「自己管理ができていない」という点に対して、それがいい、悪い、といった評価はありません。ただ、その言葉が「出た」ことに意味がある、と言いますか。
その言葉を、インタビュアーである塾長は拾い上げます。
「『自己管理ができてない』ってA君は言ったけど、そこをどうしていくのか、それがカギになるかもしれへんなぁ」
その子がこの場で発した言葉の蓄積の中で、その子自身が気づいた自分を括る言葉に反応し、塾長の言葉で言い直すことによってその言葉を改めて意味づけ、キーワードに昇華する塾長。
こういったプロセスは、この語り場をその子にとってのこれからに意味づけるための仕掛けであったりもするのかなぁ、などと思ったりもして…
どこまで塾長が意識しているのかは不明なのですが、さすが一筋縄ではいかない塾長の「語り」の引き出し方に、ムムムと唸るのでした。