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日誌

その子の中にいる「私」

先日の日吉での体験学習での出来事。
お昼ごはんを食べたあと、みんなで百人一首をすることに。
ほとんどの子が百人一首の歌を覚えているわけでもなく、騒ぎながら、わけもわからずカルタ取りのようにやっていたのですが、そこに入らない子がひとりいました。


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その子に「入らへんの~?」と訊いてみても、「いいです」とのことだったので、私も百人一首に盛り上がる輪を外から眺めていました。
すると、「あれ、この光景どこかで見たことある……私や!!」
我が家では、毎年お正月に親戚が集まると百人一首をしていたのですが、そこでいつも読み手にまわっていました。
なぜなら、勝負に参加しなくて済むから。負けなくて済むから。
しかも古典などの日本文学が好き、といっちょまえに喧伝していたので、そんな私が百人一首をパーフェクトに覚えていないことがばれ、負けるのなんて、そんな屈辱耐えられない…
こんなことを考えて身動きがとれなくなり、知らないことは知らないと開き直れば楽しめるものも楽しめなかった子どもでした。もったいない…
思えば、中高生の頃の教室でも同じようなことをしていました。教室に仲のいい子がいなければ、わいわい騒ぐクラスメイト達をよそ目に鞄からおもむろに文庫を取り出し読みふける…(振りをする)
みんなとは「違う」ことをして自らの優位性を誇ろうとしていたあの時…(今もこういう傾向あるのですが)
知誠館のその子が私と同じことを考えてそうしているわけではないでしょうが、その子の背中を見て、私自身のことが思い出されたのでした。そしてこの子は今どんなことを考えているのかな~と知りたくなったり。
ここから感じるのが、講師である私が、生徒を通して自分の課題や成長に直面しているのだなーということ。
この子のこういうところがこうなったら少し生きやすくなるかなぁ、こういった風に考えれば本人のしんどさがゆるまるかなぁ…というところは、案外自分にも言えることだったりする、というか、自分自身が悩んで考えているからこそそう見えるのかなぁ、と思ったりします。
知誠館では、頻繁にスタッフ間でのミーティングを重ね、そういった様々な意見を重ね合わせて生徒を見てゆきます。
そのため、私はこう見てたけどあの先生はこう見てるんだ!という新鮮さがいつもあり、それが自分の見立てを揺さぶってくれています。
だからこそ、自分が見ている生徒像に客観性が入り、その子から見える自分の課題、みたいなものに少しばかり焦点が合いやすいのかと思うのですが。
だからといって、自分の課題が見える=自分の課題が解消される、というわけではないんですけどね…
私が見ている「その子」と、その子から見える「私」と。
「私」だからこそできるアプローチはないかなぁと考えながら、あがいたり、たまにあがくことを諦めちゃう自分にもやもやしたりする日々です。