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日誌

キャリア支援

ある行政の就労支援プログラムを受けたことがあるという青年が、ラウンドテーブル(11月16日 南丹ラウンドテーブル 第11回「キャリア教育、キャリア支援のウソを考える」)でこんなことを話してくれました。
「あのプログラムは、民間の団体が委託を受けていて、とにかく半年間でどれだけ多くの若者の就職を実現できるかがその団体の評価につながっているので、とにかくどこでもいいからどこかへ就職させていこうというプレッシャーが強かったです。僕の場合は、大学院へ進学というということで何とかなりましたが・・・」


2013年11月16日 南丹ラウンドテーブル 第11回「キャリア教育、キャリア支援のウソを考える」ここで大事なポイントとなってくるのは、キャリア支援が若者のための事業であると同時に団体のための事業であるという構造です。このバランスが一旦崩れてしまうと、もうそれは、誰のための支援なのかが見えなくなってします。
「だからあのプログラムでは、本当に就労が大変な若者は敬遠されてしまう。半年で結果が出ないから・・・」
結果ばかりを追い求めていくと、たちまちこんな状況になってしくように感じます。
「プログラムの中では、歩き方講習であったり、挨拶の講習、話し方講習なんかやってました」
実際、プログラムでは様々な取り組みがされていたと彼は言います。でも、私にはそれらがとても安直なものに思えてしかたがありませんでした。何とか手っ取り早く就職へとこぎ着けていくための安易な方法。学校で言えばテスト前の一夜漬けのようなそんな感覚です。
私は、ラウンドテーブルの中で、3年間のひきこもりの経験をしたという生徒の話をしました。彼は2年前まで、毎日のように自殺を考えていたと言います。しかし、今では彼はパティシエになるために昼間はホテルで働き夜は専門学校に通うという道を自分で見つけ出しています。そしてその学校に通うための学費を早朝からスーパーで働き貯金しているのです。
2年前の彼と今の彼は、こんなにも違いがあるのです。もしそんな二人に対してキャリアプランを作成するとしたら、それは全く違ったものになるんじゃないでしょうか? つまりここで大事なことは、彼の中に大きな変容ののりしろがあるという事実です。
ひきこもりの若者たちのキャリア支援を考えた時、今の現状の若者を前にしていったいどれほどの支援が可能なんでしょう? それらはいつも間に合わせ的、あるいは安易な、あるいは施し的なものにならざるを得なくなってしまうんじゃないでしょうか?
私の経験から言わせていただくと、就労ということに向き合い始めることで、彼らの中にはいくつかの大きな葛藤が生じます。その葛藤を契機として、彼らが自分自身の過去を振り返り、過去から今に至る自分の生き方を見つめ直したところに、これからの未来がデザインできるように思うのです。これらは、ライフストーリーワーク、あるいはキャリアポートフォリオの手法と重なるかもしれません。
つまり私がここではっきり主張したいことは、彼らの変容を前提としたキャリアデザインが必要だということ。そしてそのためには、歩き方講習や挨拶講習なんていう安易な方法論に依存するのではなく、自分のキャリアと向き合う過程を「教育」の機会として位置づけ、そこに誰かが共に立ち会い、共に考えていくシステムを構築していく必要があるように思います。