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日誌

居場所だけでは、ダメなんです

居神先生と大村先生は、「若者たちの社会包摂」に関する研究事業の一環として
知誠館を訪問されました。


「社会包摂」って難しい言葉ですよね。
これは英語ではソーシャルインクルージョンsocial inclusionと呼ばれ
一旦社会からはみ出してしまったものを、
再度社会に組み入れることを意味しているんです。
これによく似た言葉に「社会統合」というものがあります。
英語ではソーシャルインテグレーション social integrationと呼ばれるんですが
この言葉とははっきり区別されています。
「統合」は、多数の色に少数の色を染め直すようなもので
全体として同じ色の社会の成立がイメージされているのに対して
「包摂」は、少数の色が多数の色を持った社会に加わるイメージなんです。
そこには、いろんな色からなる社会のイメージがあるんですね。
だから、この先生たちの研究の核は
一旦社会からはみ出した若者たちが、
自分たちの可能性を再度見出しながら
どういった形で再び社会参加していくことが可能なのかということです。
ただその時に「居場所」にとどまるといった形だけでは
社会参加が不可能なのではないかという問いがあったのです。
これについては、学芸大の学生さんも同じようなことを考えていました。
「フリースクールが、ただ居場所になっているだけでいいんでしょうか?
子どもたちが復学していかないと、結局自立していけないんじゃやないでしょうか?」
彼女もそんな疑問を持っていたようです。
そんなみなさんの関心どころは、
知誠館の活動がかなり積極的に子どもたちの「変容」ということに
力点が置かれているということでした。
「多くのフリースクールやひきこもりの若者たちの集まる場が、
“居場所”になってしまっていて、
若者たちがそこにずっととどまり、
最終的にそこでボランティアをしたりして
結局、若者たちを取り込んでいるような現状もあります。
僕たちの研究の論点は、
そういった形での若者支援が果たして
社会包摂を実現しうるのか?
ということであり、
またそれに代わる支援のあり方には、
はたしてどういったものがあるのか?
ということです」
この大村先生の主張には、私も全く同感でした。
私たちは知誠館の活動も
「居場所」では、若者の問題は解決されないという前提があって
組み立てていったのですから
このことは、ある意味で明白なものでした。
確かに不登校の子どもたちにとって
学校や家ではない、もう一つの居場所(サードプレイス)は
とても大切な場所と言えます。
ただ、問題はそこに若者たちが
ずーっととどまっていてはダメだということです。
居場所が終着駅(ターミナル)になってはいけないということなんです。
この安心のできる居場所にいる間に
彼らが自信を取り戻し
集団への所属感を取り戻し
自分自身を見つめなおし
未来に対する希望を手に入れる。
そしてはじめて、彼らはここを巣立っていくことができるわけです。
だから不登校や若者支援の現場においては、
「居場所」だけでは不十分なんだと私たちは考えているんです。
「不登校から自律的学習者(アクティブラーナー)ヘ」
このことは、知誠館の教育の核にある考え方です。
何もできなくなった不登校の子どもたちが、
自律的に学べる子どもへと変容を遂げていく。
自律的な学習者は、
あらゆる経験からもその意味を読み取り
次の自分を作り始めてくれます。
彼らにとっては不登校の経験さえも
重要な学びの材料になるのです。
「不登校になってよかった!」と
どれほどの子どもたちが卒業の日に言ってくれたでしょう?
暗黒の不登校経験をも、なくてはならない人生の一コマにできるのは、
子どもたち次第なんです。
居場所だけではダメなんです。
そこから、彼らが大きく変容を遂げ
自律的学習者へと育っていかないと
残念ながら、不登校はひきこもりへと接続するのです。
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