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日誌

演劇学の視点から

スタッフの学び場、第4回目がありました。
今回は、演劇の脚本や演出などを手掛けながら、演劇学について研究されている枡井智英さんにお越しいただきました。


狭い意味での「言葉」を超えた「ことば」って何だろう?
「ことば」を用いた表現や、表現の場ってどんなもの?
そんな疑問から、「言葉」ではなく「ことば」、例えば「身体」を用いて表現する演劇に精通する枡井さんに聞いてみよう!
というのが今回の学び場の経緯です。
下の画像で真ん中におられるのが枡井さんです。
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これは別の角度から
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私は人生で数えるほどしか演劇というものを見たことがありません。
また、私の周りにも演劇に携わっている人もいません。
なので、枡井さんの話は新鮮で、とても面白かったです。
中でも、私が印象に残ったのは
・「共在(きょうざい)」という概念
・「鑑賞」という言葉の成り立ち
のふたつです
「共在」とは、演劇がパフォーマーだけではなく、観客の参加によって成り立っているという考え方のことです。
観客が見ている舞台が、劇ではなく現実のものとして感じられ、そこに観客が参加する(喝采を送ったり、のめり込んだりする)ことによって初めて演劇は成り立つんだそうです。
そして、その状況を作り出せる力を「芸」と言うと。
欧米の番組などを見ていると、観客の感情が、拍手や指笛、笑い、ため息、ブーイングなどの形で、演じ手のところに届けられるシーンをよく目にすると思います。
あの瞬間に、まさしく「共在」が起こっているのです。
でも、日本ではそんなシーンをあまり見ることはありませんよね?
それはなぜなんでしょうか…?
その答えが「鑑賞」という言葉の成り立ちと関係しているんです。
「鑑賞」という言葉は、もともと明治時代の教養主義文化の中で翻訳された言葉で、そのころの教養主義の人たちは、西洋の哲学や文化に触れて教養を磨こうとしました。
そうなると当然、音楽も教養を身につけるためには必要になってくる。
しかし、彼らにはレコードしかない。
つまり、LIVEでその演奏に参加するのではなく、「鑑賞」する他なかったというわけです。
他にも多くの要因があると思いますが、そういった「鑑賞」の文化が根付いているため、日本ではあまり「共在」というものが見られないのかもしれません。
私もそうなのですが、芸術と呼ばれるものを目にした時に、何かこう感動しきれないというか…
どこをどうやって見たらいいのかが気になって、入り込めないというか…
なんか頭ばっかり使ってることってみなさんもありませんか?
私はこういった自分があまり好きになれず、「共在」できる人のことを羨ましく思っていました。
ですが、私のような「鑑賞」してしまう文化が根付いているということを知って、納得できました。
そして、「なるほどそういうことやったんか」と思っていたところ
この「鑑賞」の文化は、学校とも関わりがあるのではないかと思いました。
学校の授業を、先生がパフォーマーで、生徒がそれを「鑑賞」するような形式だと考えると
なかなか「共在」するような授業ってなかなかないんじゃないでしょうか?
自分もそんな「共在」できるような授業ができるようになれたらなぁと思いました。
教師や生徒という枠組みを越えて、一緒に学ぶことと、演じる側と観る側を越えて共在すること
どこかでつながってるのかもしれないなぁと思った今回の学び場でした!