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日誌

公開ラウンドテーブルのその後

「もっと自分には言いたいことがある」
という、ある生徒の一言で始まったこの企画は、たくさんの人に支えられながら、生徒たちの試行錯誤と共に実現しました。
自分の言葉が現実になっていく。簡単にはいかなかったかもしれない、まだまだ言い足りないことがあったかもしれない。けれど、それらも含めて生徒たちの中で今回の経験はとても大きな財産になったのではないでしょうか。
今回はそんな公開ラウンドテーブルのその後について報告させていただいたいと思います。


3月8日に公開ラウンドテーブルが開催されました。
第一部

第二部

この企画は、生徒たちだけでなく参加者の方々や、放送をご覧になった方々にも少なからず影響を与えたようで、ご協力してくださったNHKの記者の方から手紙が届きました。
記者の方からのお手紙と公開ラウンドテーブルのチラシ
手紙の中には、次のような趣旨の言葉がありました。
「―生徒たちが堂々と顔を出して、自分の表情で自分の言葉を語ってくれる姿をカメラにおさめられたことが、とても貴重な場に立ち会えたと感じた─」
モザイクをかけることなく、名前を隠すことなく、堂々と自分の言葉で自分を語ったことの意味は何だったのでしょうか。
私は、社会にレッテルを張られたマイノリティの人たちの実態を、マジョリティである私たちが知りえたことだと思います。それは、マジョリティの側の凝り固まった概念を揺らがせることにつながるのではないでしょうか。記者の方によれば、放送をご覧になった方から「不登校のイメージは勝手に作ったものだと知った」というものもあったそうです。
冒頭の生徒はこうも言っていました。
「僕らが求めている支援と、支援者の人が考える支援にズレがあると思う」

このズレはなぜ生じてしまうのでしょうか。
議論の中で、生徒たちが「ありのままでいいよ」と言われることについて「それは何か甘やかされてる感じがして嫌だ」と言うシーンがありました。
確かに、不登校の子どもたちに、「ありのままでいいよ」と言うのは簡単です。
しかし、「ありのまま」でいられない社会が現実には存在しています。
この矛盾を生徒たちは敏感に感じ取っているのかもしれません。
今回、生徒たちが一人の個人として語るという行為は、「不登校」というレッテルを張られた生徒たちの側から現実を伝えようとした行為だと言えるのではないでしょうか。
この行為を無駄にしないためにも、社会はその声を聴き、対話を開けていかなくてはならないと思います。
そしてそれは、不登校に限らず、他のどんな文脈の中でも必要なことではないでしょうか。
単純な因果関係では立ち行かないこの現実を生きていくために必要なことはなにか。
そんなことを考えさせられた公開ラウンドテーブルのその後でした。