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日誌

まるで別人のように

「以前の僕と比べるとまるで別人のようです・・・」
そう私の話してくれたのは、今年高校を卒業してパティシエになるために専門学校へと進学するH君。彼は、高校1年生の時に学校へ行けなくなり、それから3年間自宅でひきこもった経験を持っています。


「最初は、楽だった。でも2年目くらいからだんだんひきこもっていることが苦痛になり、3年目はほとんど精神的に発狂しそうでした・・・」
そうかつて私に打ち明けていたH君でした。
そんな彼が、自分は別人のようになったと言い切ります。
根っからのまじめ人間ですが、妙にみんなを笑顔にさせるユーモアを備えたH君の振る舞いに場が和みます。
別人になるって、いったいどういうことなのでしょうか?
それは、青虫が蛹になりそしてやがて蝶になるように、大きな変化がそこにあることを示します。
私たちは、そんな大きな変化のことを「変容」と呼んでいます。
青虫がやがて華やかな蝶になっていくように、その変化はいつも劇的なのです。
アウラの森は、そんな彼らが変容を遂げていく場、青虫から蝶へとその姿を大きく変えていく蛹が育つ場所なのかもしれません。
生物物理学、生命関係学をご専門とされる清水博先生は、その蛹の状態に関して次のように表現されています。
「その社会ではちょうど変態の過程にあるさなぎのように、二重のドラマが進行している。第一は過去からの秩序の消滅のドラマであり、第二は新しい秩序の生成のドラマである」と・・・
つまり変容過程としてすべてが停止したかのような蛹の状態では、その内部で絶え間ない死と絶え間ない生が連続して生じています。新しい蝶の身体を構成する細胞を生み出すために、青虫の身体を構成していた無数の細胞が死んでいくわけです。まさにそこにあるのは、「生のための死」に他ならないのです。そして青虫はやがて蝶になる。蝶は、かつて青虫だった自分をまるで「別人」のように思うことでしょう。でもそこには分断されることのない連続した生命が脈々と流れているのです。
アウラの森では、いろんな子どもたちがここで蛹の過程を経験し、やがてこの森から蝶となってさまざまな世界へと飛び立っていくのかもしれません。そのためには、彼らがしっかりとここアウラの森で、「死と再生のテーマ」を十分に経験する必要があるのかもしれません。
※プライバシーに配慮するため、文中に登場する事例はすべて仮名とし、状況に応じて加工が施されております。