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日誌

今年度のラウンドテーブルを振り返って

今年度も南丹ラウンドテーブルの進行役としてお世話いただいた川畑先生より、今年度の振り返りをいただきましたので掲載させていただきます。どうもありがとうございました。そして来年度もよろしくお願いいたします。


20140308_094859.JPG2013南丹ラウンドテーブルについて(京都学園大学 川畑 隆)
 今年のテーブルには若い人たちが多く着いた。私には進行役という役割を差し引いても、彼らの話を聴くという受身の姿勢が生じ、彼らの話に年長の私が入っていけるところを見つけようとした。そうしたほうが、3時間後にテーブルを離れるときに、「今日はこの時間を過ごせてよかった」と思える確率を少しでも高められるように思ったのだ。
 若い人たちからは考える材料をたくさん貰えた。もちろん、若い人と一口に言っても発言はいろいろにあった。年長の私がいま思っていることや、若い頃のことを思い出して考えることによって想像できる範囲にある(と思える)発言も多くあったが、想像力を駆使して懸命についていきながら、私自身の何かが刺激され揺さぶられるようなものもあった。
 今年は「キャリア」がテーマであった…というよりは、狭義ではなく広義のそれはずっとテーマであり続けている。今年も入口は「就活」という狭義ではあっても、中身は「生き方」という広義に拡がっていった。とくに私を揺さぶった数名はすんなりとストレートに今に辿り着いているわけではないし、今も不確実な状況にある。彼らの話を聴きながら、私は次のようなことを心に巡らせていた。
 …あなたたちは自分自身をとても「頼り」にしている。自分の感覚や考えにどうもフィットしない状況を経験することによって、よりフィットする状況を手に入れようとする。そうしていくうちに、捨てるもの、手に入れ続けていきたいものが自分のなかでより明確になり、そして今度はそのフィットする状況を自ら作り出していこうとするのだ。つまり、目の前の状況が不利なものであってもそこを回避せずに自分との関係のなかで意味づけ、自分の生き方を展開していく起点としている。傍らには、安定した生活を確実にしていくような進路を求める気持ちが皆無ではなかろう自分や、そういう確実性を推す周囲からのプレッシャーがあるにもかかわらずだ。確実性を推す一般論ではなく、あなたたちが自分自身を頼りにした個別論に入っていく勇気はどこからくるものなのだろうか。
 周りからのプレッシャーを背負い続けていては不自由だと思う。だから、そのようなプレッシャーさえ若者に届けなければ若者は自由にふるまえるのではないかと考えてみても、そんなことはないだろうと思う。不自由さに依存することによってある意味で楽になれる。親や周囲もその不自由な悩める若者に依存して、確実性のない時代への自分自身の不安を和らげようとしている。生きていくうえでの「危険な賭け」をそのような共依存によって素通りし、「残り物の福」を狙おうとする。そこには、若者だけでなく、親や周囲の大人たち自身も自分の生き方(広義のキャリア)を問わざるを得ない一瞬がある。
 それに対してあなたたちは自由で強く見える。なぜ自分をそんなに頼りにできるのだろうか。信じられる自分なりの価値を、決して頑固ではなくブレないものとして自分のなかに起き続けられることの「そだち」は、もしかしたら、あなたたちが世の中のニッチな(隙間の)ところを生きながら、そのニッチなところにあるものを見続けてきたことによるのではないだろうか。そうじゃないと、そんなに地に足のついたところで自分の人生を進めていけない。…
 私を揺さぶった数名を買い被っているとは思わない。「ニッチ」を一般論的な整合性から漏れ落ちるリアリティと捉えると、数名はそれぞれにそのリアリティを掬っているように思えた。もちろん、テーブルに着いたこと自体からわかるように、彼らの力はずいぶん社会化されている。しかし、彼ら以外にも、まだ社会化せずに眠っているリアリティの宝庫があちらこちらに隠されていることだろう。
 援助者として何をそだて、そのために援助者自身もどうそのそだちの材料になれるのか。
来年度もそれを求めて集うことになる。                    (了)