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日誌

文化とどう向き合っていくのか?

アウラ学びの森のブログに次のようなブログを書いたので、この知誠館のブログにも貼り付けてみました。「文化」というものをどう捉えていくのか?まさにこの点が今、アウラの内部では旬のテーマとなっているかもしれません。




「異文化コミュニケーション」


小学生の英語を担当している佐々木先生と久しぶりにじっくり話しました。


佐々木先生は、徹底して小学生の子どもたちに研究社の英和中辞典を引かせます。たとえそれが低学年の子どもであっても、やっぱり中辞典なのです。そして子どもたちは、その分厚い辞書といつも一生懸命格闘するのです。


前回、子どもたちの様子を見せてもらったときは、彼らが自分で選んだ外国の本を(実はアウラのライブラリーには、英語の本がグレード別に1000冊以上あるのです)大きな紙に書き写しそこに挿絵も添えながら、流暢な日本語で翻訳をし、それをみんなの前で堂々と発表していたのです。そして、その得意げな彼らの表情が私にはとても印象深かったのです。


何事も「めんどくさい」としか言わなくなった子どもたち。そこには彼らにそう言わせるだけの生活文化が広がっています。


今の消費社会は、何でも出来合いのものを子どもたちに提供しています。自分で何かをやりだしたり、作り出したりすることは面倒なことだからです。お弁当に冷凍食品が並ぶのも同じですね。一から作るのは面倒だからです。


つまりここでは面倒が否定されているのです。私たちの生活文化はいつしか面倒な状況を否定的なものとして捉えだすようになっていったのです。


手紙を書くことは面倒ですよね。だから話コトバでLINEに書き込む。


辞書を引くなんて面倒ですよね。だからスマホで調べる。


お店で買うことも面倒、だからAMAZONのネットショッピング。


そんな時間があれば、他のことに使えばいいと他人は言うけれども、実際にはダラダラ時間を使うだけになっていたりする…


だからこそ小学生が分厚い辞書を引くことは、大事な意味があります。それはめんどくさいことを引き受けることであり、彼らの生活世界の文化とは違った文化の世界に触れるいい機会なのです。


思い返せば、文化は面倒なことの隙間に育つものです。佐々木先生はお茶の先生でもあるんですが、お茶の作法には面倒なことがたくさんあります。でもその面倒なことの一つ一つに大事な意味が込められている。言葉をかえれば、面倒なことであるからこそそこに意味を埋め込んでいくことができるのかもしれません。


もてなす側ともてなされる側とは、この面倒な作法に乗っかりながら、そこに埋め込まれた言葉にならない意味を感じ取る。これが茶道の真髄にある意味なような気がします。


だから、面倒な辞書引きがことのほか大事になってくる。そしてその大事な作業を経て初めて翻訳という大きな仕事ができるようになっていく。


こんな風に文化は新しい世界を作り出すための源泉でもあるのです。それは子どもたちの一生涯の財産になりうるものかもしれません。


希薄になった生活文化の中で生きる子どもたちにとって、自分で調べたり、自分で考えたり、その考えを誰かにぶつけたりしながら考えを練り上げていくような作業は、まさに異文化コミュニケーションなのかもしれません。


自分たちの文化とそうした深い根を持った文化が出会っていく、そんな場がアウラ学びの森なのかもしれません。