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日誌

自ら動く力

どうも、学びの森のキノシタです。

昨日は2学期最終日ということで、生徒スタッフみんなで教室の大掃除をしました。

僕は例年通り外で泥だらけになりながら網戸や玄関周りの汚れと格闘していたのですが、掃除が終わって教室に入ると見違えるほどピッカピカに。

空気まで澄んでいるような清らかな気持ちになりました。

初めて参加した子もいて、こんなとこまで掃除すんの!?と驚いたと思いますが、みんな一生懸命掃除してくれたようです。ありがとうございます。

 

さて、とてもとても早いことにもう2学期が終わったので、僕なりにそれを振り返ってみようと思います。

どんなことを考えながらこの2学期を過ごしてきたんやったっけ…?

そう考えたときに「自ら動く力」というキーワードが浮かび上がってきました。

 

この言葉は実は、僕が大学院生のとき、学びの森に初めてやってきた頃に出会った言葉です。

当時の僕は、ただなんとなく大学院で「不登校の研究をしよう」とか「臨床心理士の免許を取ってスクールカウンセラーになろう」と考えていました。

そんな時、指導教諭から「学びの森という場所に行ってきなさい」と言われ、理由もわからないまま扉を叩くことに。

それ以降もう10年になりますが「森」の中を彷徨い続けている次第です…。笑

※森に迷い込んだきっかけは僕の講師プロフィールを参照ください

 

学びの森に迷い込んでから僕の「学びほぐし」はスタートするわけですが、その中で出会った言葉が「自ら動く力」なわけです。

これは確か、あるマッサージ師の方の言葉で、マッサージをする上で大切なのは患者に「自ら動く力」を行使させることだ、という意味で使われていました。

 

例えば誰かにマッサージをしてもらっているときに、自分が押してほしいところってありますよね?

そこを的確に押されると気持ち良いし、凝りもほぐれて良い状態になる。マッサージ師としては一番の腕の見せ所。

でも、ここでそのマッサージ師は「それではいかん」と言うわけです。

「本当に大切なのは、患者が「そこじゃなくてここ!」と押してほしいところに自ら身体を動かすように、少し外れたところを押すことだ」と。

 

改めてこの言葉について考えてみると、3つのポイントがあるのではないかと思いました。

ひとつめは、大前提として人は自ら動く力=知性が「ある」と考えること。

ふたつめは、「してもらったから」じゃなく「自ら動いたから」気持ちよかったという意味付けが生まれること。

みっつめは、マッサージする側はされる側の自ら動く力=知性を行使せざるを得ない状況に追い込む存在として在ること。

 

ひとつめについて、僕は学びの森で色々な子どもたちと関わるときに、大前提として子どもには知性があると思っています。

だからこそ色々な場面で、どちらかが一方的に説明する/教えるのではなく「一緒に考える」ことを大切にしたい。

それはもちろん子どもだけでなく、スタッフや保護者の方々とも同様にそう在りたいと考えています。

 

そんなことを言ってはいるが、現実はどうなんだ?と。

「一緒に考える」ってできてるんか?と。

僕は僕で「こんな経験って大事やろう!どや!?」と動き回り、子どもは子どもで「楽しいこともっとちょーだい!嫌なこと、めんどくさいことはやらないけど!」が当たり前になってないか?と。

そんなことを1学期の終わり頃に考えてたんです。

 

そして2学期、じゃあ「一緒に考える」ために何をすべきなんやろう?「一緒に考える」を大切にするってどういうことなんやろう?

そんなことを改めて考えたときに、ふたつめのポイントが足りてないんじゃないかと思い、もっと大人も子どもも自分たちで考えて行動する機会をつくろうとしたのが2学期だったかなと思います。

 

具体的には、年間行事を亀谷先生や久保先生にお任せしたり、<教養講座>をすべて希望者のみにしたり、<作家の日>に何するかは準備片付けも個々に任せたり、自分の<学習成果物>は自分でまとめてもらったり、<約束事>をみんなで確認して修正したり、<親の学び場>で僕の問いを投げかけたり、大枠で言うとこんなところでしょうか。

そうそう、休みたい・勉強したくない・ゲームしたいなら保護者とちゃんと闘え(話し合え)と言ったこともありましたね。笑

 

自分で動かないと何も変わらなかったり、自分で動いたからそこに責任を持たないといけなかったり、自分で動くことでしか得られないものがあったりといった部分を共有しながら試行錯誤を繰り返しました。

その結果、少しずつ「してもらうのが当たり前」ではなく「自分で動くのが当たり前」という雰囲気は醸し出されてきたのかなと思います。

 

そういった流れの中、3学期は個人的に、生徒たちが自ら動く力を行使せざるを得ない状況に追い込む存在として在りたいと考えています。

別に精神的に追い詰めたいわけではなくて、楽しい・知りたい・考えたい・悩ましい・苦しい・でも生きてる!と感じられる状況に足を突っ込んでしまうような瞬間に関わりたいなぁと思っているだけです。

そのためにも、まずは自分自身が自分で動く力を行使せざるを得ない状況に追い込まないと。

 

ということで、3学期はもっとスタッフ間で「そもそも」の部分を議論したり、自分の中で出てきた問いに対する答えを文章にしたり、要するにたくさん学びたいです。

大人が真剣に生きてる姿が見せられれば、子どももその世界に足を突っ込みたくなるかもしれないですし。

 

さて、このブログを書いている途中で、スタッフのミーティングがありました。

テーマは奇しくも「2学期の振り返り」。

それぞれのスタッフの経験や、それに基づく色々な視点を共有していると、共通して「自分とは何か?」を考えてほしいという意見が出てきました。

 

前思春期や思春期の子どもたちが何らかの形でここにやってきて、やがてここを巣立っていく。

いや、思春期とかそういうの関係ないか。

大人であっても、「自分とは何か?」を考えるのって大事やし、そんなことを考え続けながら生きてるはずですもんね。

とにかくそういうことをちょっと立ち止まって、安心できる環境で、異年齢の他者と考えるための場所が学びの森ってことなのかもしれません。

 

長々と書きましたが、これで僕の2学期の振り返りとさせていただきます。

今年も色々な方にお世話になりました。

来年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

良いお年をー!

では、また~