ゲームだからダメなのか?
どうも、学びの森のキノシタです。
今日は久しぶりに<語り場>がありましたので、その様子をお伝えしたいと思います。
語ってくれたのは高校生のAくん。
以前ブログでご紹介した「グレーを生きる」の彼です。
ここのところ欠席が続いていたので、もしかしたら<語り場>が嫌なんかな?緊張してるんかな?と心配していましたが、
<語り場>が始まる前に「緊張してる?」と聞くと、「いや、それは全然大丈夫です」と返ってきたので一安心しました。
いつものように代表が、幼稚園・保育園の頃からの話をインタビューしていく感じで進んでいったんですが、
思えばAくんからそういう話を聞くのは今回が初めてでした。
まず、こうして彼がこの場に立って語っていることがすでにすごいことなんだろうなと思いながら僕は話を聞いていました。
Aくんってそういうことしてるときが楽しかったんや、そういう出来事が印象に残ってるんや、など
初めて聞く内容ばかりで、Aくんが語るたびに僕の中のAくん像が書き換えられていくような感じがしました。
Aくんは中学校まで、勉強も部活動も友人関係も充実していたそうです。
それが高校に進学した途端、急に歯車が狂い始めます。
仲が良かった友達は別の高校に進学したため、クラスで孤立していった。
通っていた塾が厳しく、課題に追われて部活からも次第に足が遠のいていった。
それで学校にもだんだん行きたくなくなって、徐々に休みがちになった。
そんな風にAくんは語っていました。
その後、彼が学びの森にやってきたのは高校1年生の冬でした。
学びの森にやってきてからも、来たり来なかったりの日々。
通信制高校の課題をなんとか仕上げて、ギリギリ高校2年生までの単位を取得したような感じでした。
それから少しして、Aくんはパタッと来なくなりました。
この頃、僕は彼と全然話せてなかったように思います。
なんかこう話せるような感じじゃなかったというか、分厚い壁で覆われているような感じがして、僕から関わろうとしなかったのかもしれません。
学びの森に来ない間、Aくんは日中ずーっとゲームをしていたそうです。
その話は保護者の方から聞いていて、漠然と「ゲーム依存ってやつか?」などと考えていました。
たまに電話をかけると、今ゲームしてるので…と電話に出てくれないときもあり、「そらしゃあないな!」と言いながら、正直「なんでやねん!」と心の中で叫んでいました。笑
このままずっとゲームばっかりし続けて生きていくんかなぁ?
それはそれでありなんやろうけど、外の世界とのつながりってどうしていくんやろ?
やっぱり現実の世界で生きていくために動くことが必要なんちゃうか?
そんな思いが僕の中で逡巡していました。
しかし、Aくんの話を聞いていると、彼なりの文脈があるということがわかりました。
Aくんはゲームをする中で、他のプレイヤーとのつながりを作っていたし、
自分のプレイ動画を発信したり、大会を主催したり、積極的に活動していたそうです。
しかもそれは、自分の将来に何らかの形でプラスになることを模索していたからということも話してくれました。
僕はこれまで、Aくんが「ゲームをしているから」つながりが無いとか、「ゲームをしているから」何も動いていないと勝手に思い込んでいました。
でもそれは、Aくんの考えていることを聞くことができなかった、聞こうとしてこなかったがゆえの見方でした。
目の前で起こっていることだけに焦点を当てるのではなく、その背景に何があるのかを知ろうとする。
僕が学びの森で大切にしようとしている姿勢のひとつが、「ゲーム」という言葉でこうも簡単に崩れてしまうものなのかと反省しました。
きっと僕は無意識のうちに、「ゲーム」という言葉にネガティブな意味をくっつけていろいろ考えていたんだと思います。
でも本当に大事なことは、「ゲームだからダメ」と考える前に、まず目の前にいる人の話を聞くことなんだろうと思います。
Aくんはゲームを通していろんなことを考え・行動してきたわけですが、ある日突然その生活をやめて学びの森に通うようになりました。
何があったのかは聞いても「まぁちょっと…」と照れ笑いをしながら濁していましたが、彼の中で何かがあってここに来る選択をしたそうです。
話を聞いていた生徒からは、「それだけひとつのことに熱中できることがすごい」とか「めちゃくちゃ熱中してたのをキッパリやめて切り替えられるのがすごい」という感想が出ていました。
それを聞いたAくんはまた照れ笑いをしていましたが、Aくんが語ってくれたからこういうやり取りも生まれるということを考えると、味わい深いものがありました。
こんなふうに学びの森では、何があったかわからへんけど、生徒が急にゴロッと変化することがよくあります。
僕自身もきっと、きたるべきときがきたらゴロッと変わってきたんだと思います。
その「きたるべきとき」がいつなのかは誰にもわかりませんし、ホンマに変わったかも誰にもわかりません。
ただそのときまで関わる(待つことも含めて)ことの大事さを教えてもらったような気がします。
では、また~