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日誌

学びの森の芸術の時間レポート、その1

こんにちは、学びの森のタナカです。

 

 

 

 

学びの森では今年度から、芸術の授業が始まっています。

 

 

亀岡で小中高生のこどもたちのための造形教室こどもアトリエてくてくを開き、自らも陶芸家として活動しておられる綿引恒平さんを講師に迎え取り組んでいる芸術の時間。

 

 

講師となる綿引さんの出会い場から始まったこの時間ですが(その時のブログはこちら:「これも・それも・あれも『陶芸』」)、だいたいひと月に一度のペースで定期的に講座を持ち続け、今月には第7回目を迎える予定です。

 

 

今日のブログではこれまでの流れを振り返り、その中で私が感じたことやこれからのわくわくをつづりたいと思います。

 

 

 

 

出会い場で綿引さんに出会った約2週間後から、芸術の時間は始まりました。

 

 

 

 

5月の終わりにおこなった初回は、「芸術って何だろう」「美術の授業にどんなイメージを持っていた?」といった「芸術、美術」というテーマについて皆で話をしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

「『芸術』と言われてもどんなことなのかイメージしにくいよね」

 

「『美術』は好きだけど得意ではなかったというのは、学校で成績がよくなかったからかも」

 

「下書きまではうまくいくのに色を塗ると途端にダメになってしまう気がした」

 

 

こんな話を生徒や綿引さんの実体験をもとに話していき、お互いのことをより知り合う時間に、そして自分たちがこれからやってみる「芸術」とよばれる何かについて振り返り、考える時間になりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第2回は7月のはじめ、少しずつ暑くなり始めた季節におこないました。

 

 

 

 

前回の時間をふまえ、綿引さんが生徒一人ひとりと話をし、「芸術とよばれる領域のどんなことに興味をもっているか、この時間にどんなことを実現してみたいか」についてそれぞれが方向性を探っていくことになったこの回。

 

 

綿引さんと話をしていく中で「今好きなもの」「ハマっていること」を見つめ直し自分がしたいことを見つけていった人もいれば、最初から「作りたいもの」がはっきりしていた人もいました。

 

 

綿引さんと話すのを待ったり話し終えたりした人は、綿引さんが持ってきてくださった画集や作品集などを見て過ごしていました。

 

 

一人ひとりとじっくり話をしたため1時間では全員と話しきれず、そんな風に過ごす時間が何度か続きました。

 

 

 

 

そして全員と話し終わった9月、粘土を使って何かを作ってみることに。

 

 

自分が作りたいものを作る前に、実際に自分の「手」で粘土を「触る」こと、それによって何かを「作る」という経験をしてみようと、我々スタッフも含め皆で思い思いに粘土を触りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

綿引さんは、3種類の粘土を持ってきてくださいました。

 

 

綿引さんからの「『まる』、球体を作ってみましょう」という最初の指示で、皆ただのまるーい球体を作り始めました。

 

 

実際に粘土を手にとって、水分の多さや土の種類によって質感や色がこんなにも変わるのかと驚いた私。

 

 

粘土に触って、こねて丸めて、質感を感じながら「まる」を作り上げることに、大人ながらも夢中になってしまいました。

 

 

そうしている間にふと顔を上げあたりを見渡したら、生徒たちも同じように粘土に夢中になっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

モノを「触る」こと、そこから「感じる」こと、あるものを「作ろう」と思うこと、そのために「手を動かす」こと、モノをよく「見る」こと、「工夫する」こと…。

 

 

大人になると忘れてしまいがちな感覚を思い出しながら、生徒たちと一緒になって仕上げた「まる」たち。

 

 

 

 

 

 

 

 

並べてみると、結構それぞれ違いがありますね。

 

 

球体という同じテーマなはずなのに、生まれるものはこんなにも個性的。

 

 

 

 

このあとは、それぞれが思い思いのかたちを作っていくことに。

 

 

自分の作品を作り上げたのちは、ほかのひとたちに作品を紹介しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここで作り上げた作品こそ、三者三様十人十色、当たり前ですがひとつとして同じ作品はあらず。

 

 

同じ「粘土」という素材を前にしてこんなにも違う作品を作り上げるということは、我々人間は一人ひとり本当に全然違う人間なんだな、などという根源的な感慨に改めて浸るほどそれぞれ違い、面白かったです。

 

 

その作品たちを一部、ご紹介します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただ作って終わりというわけではなく、「評価」はせずに皆で自身の作品を共有し合い、「こういうものを作ろうとしてたらいつの間にかこんな作品になりました」「ここがこだわったポイントです」「なんでこんな風にしたん?」などと作品について会話を交わす。

 

 

そのやりとりが面白いなぁと思いました。

 

 

私が小中学生の頃に取り組んできた「美術」の時間では、個々で作品を作ったとしてもこういった形での共有はあまりなかったように記憶しています。(しかしもう10年以上昔の話なので記憶は曖昧…やっていたらごめんなさい、美術の先生)

 

 

あったとしても、教室に貼りだされた作品をなんとなく見たり見なかったりして、「私がやっぱり一番うまいわ(自己陶酔)」「あ、でもこの人うまい…」「この作品掲示には何の意味があるんや…」などと思っていただけでした。

 

 

「うまい」「へた」の評価基準しか持ち得ておらず、「なんでこの人はこう描いたんだろう?」「なんでこのテーマを選んだんだろう?」「どうしてこんな風に作れるんだろう?」といった疑問を持たず、持ったとしても共有する機会もあらず、いつもなんとなく過ぎ去っていった「美術」の時間。

 

 

 

 

それがこうして大人になって、生徒たちが作品を作り、共有する場面を共にすることで、それぞれの作品が見せる違い、そこから感じる個性の違い、ひいては私たち人間が一人ひとりまったく違うという当たり前の事実を思うようになりました。

 

 

人間は一人ひとり全然違う。

 

 

「違う」ということは少し怖いことでもあります。

 

 

「私」と「同じ」じゃないということは、基本的には「分からない」が前提になるから。自分が大切にしたいこと、分かってほしいこと、放っておいてほしいこと、共に過ごしたい時間のあり方、そのほか何もかもが違うかもしれないから。

 

 

となると、そこを調整していくのは大変です。だから、なるべく「同じ」であってほしいと思うし、「違う」ことを「怖い」と思うこともある。

 

 

 

 

ですが彼らのあまりにも違う作品を見ていて、心底「おもろいな!!!!!!(笑)」と思いました。

 

 

違い過ぎて、おもしろい。

 

 

違い過ぎて、「この人はどんなことに興味があるんやろう」「なんでこれがこんなに好きなんやろう」「これから何を作っていくんやろう」と、興味がわいてくる。

 

 

作品を通して、その人のことをもっと知りたくなる。

 

 

ああ、こういう美術って、おもろいかもしれん。

 

 

そんな風に感じました。

 

 

 

 

これから皆が作り上げる作品も、それを通して皆といろんなことを話すのも、作品作りに参加していない生徒(この時間は自由参加です)の「好きなこと」について話を聞くのも、めちゃくちゃ楽しみです。

 

 

もちろん、私も私の作品を作って、皆に話を聞いてもらいたいと思っています。

 

 

 

 

今後もつづく学びの森の芸術の時間、次回もここでレポートいたします。