もう一つの顔
その日私たちは、育子のお母さんが撮ったという
育子の動画に釘付けになっていました。
育子は、家以外ではまるで蚊の鳴くような声でしか話さない女子でした。
「高機能自閉症」
いわゆるアスペルガー症候群という名称が彼女に与えられたラベルでした。
育子は、あまり表情を変えることなくいつもムツッとしていて
怒っているかのように見えました。
彼女が理解できているのか?
困っているのか?
それさえも最初は、よくわかりませんでした。
育子の微妙な表情を読み取り
微妙な仕草から本意を推測し
やり取りをおこなう以外に方法が見つかりませんでした。
そんなある日、保護者面談の時に見せられたのが
育子の家での様子でした。
彼女は、とても流ちょうな言葉で家族の様子を
カメラに向かって紹介していたのです。
それはまるでテレビのアナウンサーのようでした。
はきはきした言葉と
明るい笑顔
そこには、私たちの知っている育子はいませんでした。
私たちの知らない「もう一つの顔」がそこにはあったのです。
教室で見せる子どもたちの顔は、
ある一部分にしかすぎません。
それを見て、その子を理解したと思うのは
私たちの勝手な思い込みかもしれません。
そこには、視点のずれがあるからです。
子どもたちは、場面を使い分けます。
知誠館にいるとき、学校にいるとき、家にいるとき
様々な顔を見せているのかもしれません。
その子の目には一体どんな世界が見えているのか?
私たちはそこを意識しないといけないように思います。
勝手な思い込みが、大きな誤解を生むからです。
育子の「もう一つの顔」を知った私たち。
それは衝撃的な映像であったと同時に
新しい可能性を予感させるものでした。
無表情な育子と感情豊かな育子が、共存する状況の中で
それを区別していた楔が外されると
そこに私たちの知らない、
家族も知らなかった
新たな育子が現れてくるかもしれない。
そんな予感を抱きながら、私たちは彼女に接していきました。
その後、育子は公立高校へと進学し、
大学で心理学を専攻し
今年の年賀状には
就職活動の様子が記されていました。
誰が就職活動に奮闘する
育子の存在を予測できたのでしょうか?
子どもは変わっていくのです。
そして私たちは、その力をどこまでも信じていきたいのです。
育子の動画に釘付けになっていました。
育子は、家以外ではまるで蚊の鳴くような声でしか話さない女子でした。
「高機能自閉症」
いわゆるアスペルガー症候群という名称が彼女に与えられたラベルでした。
育子は、あまり表情を変えることなくいつもムツッとしていて
怒っているかのように見えました。
彼女が理解できているのか?
困っているのか?
それさえも最初は、よくわかりませんでした。
育子の微妙な表情を読み取り
微妙な仕草から本意を推測し
やり取りをおこなう以外に方法が見つかりませんでした。
そんなある日、保護者面談の時に見せられたのが
育子の家での様子でした。
彼女は、とても流ちょうな言葉で家族の様子を
カメラに向かって紹介していたのです。
それはまるでテレビのアナウンサーのようでした。
はきはきした言葉と
明るい笑顔
そこには、私たちの知っている育子はいませんでした。
私たちの知らない「もう一つの顔」がそこにはあったのです。
教室で見せる子どもたちの顔は、
ある一部分にしかすぎません。
それを見て、その子を理解したと思うのは
私たちの勝手な思い込みかもしれません。
そこには、視点のずれがあるからです。
子どもたちは、場面を使い分けます。
知誠館にいるとき、学校にいるとき、家にいるとき
様々な顔を見せているのかもしれません。
その子の目には一体どんな世界が見えているのか?
私たちはそこを意識しないといけないように思います。
勝手な思い込みが、大きな誤解を生むからです。
育子の「もう一つの顔」を知った私たち。
それは衝撃的な映像であったと同時に
新しい可能性を予感させるものでした。
無表情な育子と感情豊かな育子が、共存する状況の中で
それを区別していた楔が外されると
そこに私たちの知らない、
家族も知らなかった
新たな育子が現れてくるかもしれない。
そんな予感を抱きながら、私たちは彼女に接していきました。
その後、育子は公立高校へと進学し、
大学で心理学を専攻し
今年の年賀状には
就職活動の様子が記されていました。
誰が就職活動に奮闘する
育子の存在を予測できたのでしょうか?
子どもは変わっていくのです。
そして私たちは、その力をどこまでも信じていきたいのです。