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日誌

「嫌われる勇気」岸見一郎さんとの再会

昨日、今ベストセラーになっている「嫌われる勇気」の著者、岸見一郎さんをご自宅に訪ねました。岸見さんは、言わずと知れたアルフレット・アドラーの業績を私たちに伝えるメッセンジャーでもあります。


そんな岸見さんと私は、今から25年ほど前に一緒にアドラーを学んだ仲間でもありました。と言っても当時、ギリシャ哲学を専門とされていた岸見さんは、哲学としてのアドラーの思想にも深く関心を寄せられており、その関心が25年間一貫して貫かれ、岸見さんを介して融合したのかもしれません。当時、1年かけてまだ日本語に翻訳されていないアドラーの著作を一緒に読んだことが思い出されます。
今回の訪問は、私がこの「嫌われる勇気」を読んだことに端を発します。実は巷でこの本がうわさになったころに手に入れていたのですが、出張の際にカバンに忍ばせその道中で読むもののとぎれとぎれになってしまい結局読み切ってなかったのです。
でもこの夏休みに最初から最後まで読み切り、そして感動したんです。
私の感動のポイントは2つありました。
一つ目は、岸見さん自身がこの25年間、いかなる状況にあろうとアドラー的に生きようとし、かつ生きてこられたという事実です。
本の中で岸見さんは「哲人」として登場するわけですが、哲人は自分の生き様を通してその思想を表現しています。つまり哲人の話すコンテンツと哲人の青年へのかかわりが同じ文脈の上に重なっているわけです。これはすなわち、岸見さんの伝えるメッセージと岸見さん自身の生き様がキチンと整合していることの表れだと感じたのです。
実は岸見さんとは、ここ10年お会いする機会がありませんでした。そして今回その10年の中で様々なことが起こっていたことを初めて知りました。そんな中でも岸見さんはアドラー流の生き方を貫いてこられた。それはまさに哲人としての人生への態度なのだと感動したわけです。
二つ目は、私自身の中に確実にアドラー思想が根付いていたという事実への気づきです。
私はここ20年、アドラーの本を手にすることがありませんでした。私の関心は、その後、心理領域では精神分析、家族療法へと、学習領域では自律学習、正統的周辺参加、アフォーダンス、変容学習へと移っていったのです。
そして今から15年前にアウラ学びの森という学びの共同体を作っていくわけですが、それらの理論がすべてアドラーの思想と深くつながっていることを今回改めて実感したのです。
そしてさらに、アドラーの言う共同体、あるいは共同体感覚という人間の生きる目的に直接関与する概念が、実はアウラのコミュニティ、そしてそこへの参加という学びの目的と、ピタリと重なっていることに気づいたのです。
この間アドラーの「ア」の字も口にしなかったにもかかわらず、アドラーの思想は、私自身の中で確実に内在化されていたわけで、だからこそ私はアウラ学びの森を立ち上げる際に拾い上げていく様々な理論にある文脈が貫かれ、その文脈が学びの共同体というカタチで実現したのだと実感したのです。
岸見さん宅への訪問は、あっという間に3時間が過ぎました。いきなり深い話へと盛り上がり、そこに奥様も加わり、アドラー論議が盛り上がりました。
「アドラーのプラトンになりたい!」と話される岸見さん。対話を通してソクラテスの思想を世に伝えたプラトンのごとく、岸見さんは対話を通してアドラーの思想を正確にしかも深みを持ったものとして世に伝え続けられるのだと思いました。
アウラの実践とアドラー、アドラーと岸見さん、二つの文脈がきれいに重なっていった瞬間でもありました。
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