家島の旅を終えて
ほかの先生方がもうすでに記事にされているのですが、私も家島の旅を終えた感想をここで報告させていただこうと思います。家島に行って皆がどんな経験をしたのかについてはほかの先生方のご報告にお任せするとして(おそらく私が書くよりも格段に分かりやすいと思われますので…)、私は家島に行った時の知誠館の皆を見て思ったことについて書きたいと思います。
この家島プロジェクトに参加してまず最初に実感したことは、「普段知誠館で私が見ているのは、勉強っていう負荷がかかった状態の、皆の一面に過ぎひん部分なんやな~」ということです。
知誠館というのは、一般的な呼称を用いると「フリースクール」と形容される場所です。ですが、単なる「居場所」としての機能だけではなく、「学習の場」としての機能を主軸にした場所という点では、一般的に「フリースクール」と聞いた時に想起されるような場所とは少し異なっているかもしれません。そういった場所ですから、普段の皆との関係は少なからず、「学習」という因子の影響下にあると言えます。言い方を変えれば、普段私が見ている皆は、「学習」というフィルターを通して見ている皆だとも言えるかと思います。(もちろんそれが良い効果をもたらすことも多く、「この子こんなに頑張れる子なんや!」など、「学習」というフィルターを通しているからこそ見えることもたくさんあります。)
そういったことはごく当たり前のことなのですが、皆と知誠館で接している時間が長くなればなるほど、皆のことをとてもよく知っているような、「この子はこういう子」と一義的に定義してしまうような錯覚、驕りが知らず知らずのうちに自分の中に芽生えてきてしまいます。(あくまで私に限った話です!)
そんな中で家島に行き、いろんな経験をしている皆には、普段見られないようなはじけた、何とも言えないほどけた表情が見られました。村岡先生のブログにもあったように、普段はあまり感情を表に出さないクールな子の和らいだ表情が見られるなど、嬉しい瞬間がいくつかありました。このように、勉強という負荷がない状態の皆を見られたこと、皆の新たな表情、一面を知れたことは、とても大きな収穫でした。
次に感じたことは、「私って体よく「先生」としていてるけど、どっちが先生か分からんくらいいろいろ教えてもらってんな~」ということでした。
家島からの帰り道、ある子が「今日、A君が2単語以上の文で返事してくれてるんですよー!」と嬉しそうに教えてくれました。A君とは、彼に対して投げかけられる質問に対しても単語一つで答えることが多いなど、普段の知誠館では言葉数が少ない子でした。そのA君の変化をしっかりとキャッチし、それを嬉しく感じているその子を見ていると、本当の先生はどっちなんだろう、と思うほど大切なことを教えてもらっているなと感じたのでした。
家島のあと最初にあった私の知誠館での学習日には、私が担当している2人の生徒に家島の感想を書いてもらいました。彼らの感想には、楽しかったことは「楽しかった」と、面倒くさかったことは「面倒くさかった」と、疑問に感じたことは「疑問に感じた」と、素直な感想が書いてありました。
この感想文を見ていて感じたことは、彼らは素直だ、そして同調圧力が弱い、ということです。「同調圧力が弱い」とは、言い換えると、同調圧力があまり効いていない、ということです。
日本社会は同調圧力が強い、と往々にして語られます。そんな中で、特に知誠館にいる生徒に関して言えば、「子供は皆学校に行くもの」ということを前提とするマジョリティがかける同調圧力の中で、そこからこぼれてきてくれた彼らには、それが「しんどい」と思える感受性があった。その同調圧力から逃げてくる、同調圧力にかからない、ある意味での強さがあるのではないかなと思うのです。そして今も、楽しいものは「楽しい」、面倒くさいものは「面倒くさい」と素直に書ける素直さがある。
私はひねくれていて、思春期には楽しかったことを「楽しい」と素直に書くことにためらい、恥ずかしさを感じてしまうような人でした。まあそれを上回るほどええかっこしいの見栄張り子さんでもあるので、読み手のウケを狙う時にはそういったことを厭わず、そして本当は面倒くさいと思っていたことも隠してそつのない文章を書けてしまったのですが…なんか嫌な子ですよね。
ともかく、そういう思春期を送った私にとって、知誠館の生徒たちの素直さは、なんだかうらやましい、まぶしいものなのです。だからこそ学校という場がしんどくなってしまったのかな、とも思うのですが。ですがこればっかりは経験した本人にしか知りえない、理解しえないこと、苦しさ、つらさだと思うので、私が簡単に憶測でものを言うべきでないかとも思います。
話があっちこっちに行ってしまいましたが、家島に行って帰って、感じたことを文章にしてみました。今後もいろいろなプロジェクトが動いているようなので、皆とたくさん楽しんで、学んで、いろんなことを考えていきたいと思います。
この家島プロジェクトに参加してまず最初に実感したことは、「普段知誠館で私が見ているのは、勉強っていう負荷がかかった状態の、皆の一面に過ぎひん部分なんやな~」ということです。
知誠館というのは、一般的な呼称を用いると「フリースクール」と形容される場所です。ですが、単なる「居場所」としての機能だけではなく、「学習の場」としての機能を主軸にした場所という点では、一般的に「フリースクール」と聞いた時に想起されるような場所とは少し異なっているかもしれません。そういった場所ですから、普段の皆との関係は少なからず、「学習」という因子の影響下にあると言えます。言い方を変えれば、普段私が見ている皆は、「学習」というフィルターを通して見ている皆だとも言えるかと思います。(もちろんそれが良い効果をもたらすことも多く、「この子こんなに頑張れる子なんや!」など、「学習」というフィルターを通しているからこそ見えることもたくさんあります。)
そういったことはごく当たり前のことなのですが、皆と知誠館で接している時間が長くなればなるほど、皆のことをとてもよく知っているような、「この子はこういう子」と一義的に定義してしまうような錯覚、驕りが知らず知らずのうちに自分の中に芽生えてきてしまいます。(あくまで私に限った話です!)
そんな中で家島に行き、いろんな経験をしている皆には、普段見られないようなはじけた、何とも言えないほどけた表情が見られました。村岡先生のブログにもあったように、普段はあまり感情を表に出さないクールな子の和らいだ表情が見られるなど、嬉しい瞬間がいくつかありました。このように、勉強という負荷がない状態の皆を見られたこと、皆の新たな表情、一面を知れたことは、とても大きな収穫でした。
次に感じたことは、「私って体よく「先生」としていてるけど、どっちが先生か分からんくらいいろいろ教えてもらってんな~」ということでした。
家島からの帰り道、ある子が「今日、A君が2単語以上の文で返事してくれてるんですよー!」と嬉しそうに教えてくれました。A君とは、彼に対して投げかけられる質問に対しても単語一つで答えることが多いなど、普段の知誠館では言葉数が少ない子でした。そのA君の変化をしっかりとキャッチし、それを嬉しく感じているその子を見ていると、本当の先生はどっちなんだろう、と思うほど大切なことを教えてもらっているなと感じたのでした。
家島のあと最初にあった私の知誠館での学習日には、私が担当している2人の生徒に家島の感想を書いてもらいました。彼らの感想には、楽しかったことは「楽しかった」と、面倒くさかったことは「面倒くさかった」と、疑問に感じたことは「疑問に感じた」と、素直な感想が書いてありました。
この感想文を見ていて感じたことは、彼らは素直だ、そして同調圧力が弱い、ということです。「同調圧力が弱い」とは、言い換えると、同調圧力があまり効いていない、ということです。
日本社会は同調圧力が強い、と往々にして語られます。そんな中で、特に知誠館にいる生徒に関して言えば、「子供は皆学校に行くもの」ということを前提とするマジョリティがかける同調圧力の中で、そこからこぼれてきてくれた彼らには、それが「しんどい」と思える感受性があった。その同調圧力から逃げてくる、同調圧力にかからない、ある意味での強さがあるのではないかなと思うのです。そして今も、楽しいものは「楽しい」、面倒くさいものは「面倒くさい」と素直に書ける素直さがある。
私はひねくれていて、思春期には楽しかったことを「楽しい」と素直に書くことにためらい、恥ずかしさを感じてしまうような人でした。まあそれを上回るほどええかっこしいの見栄張り子さんでもあるので、読み手のウケを狙う時にはそういったことを厭わず、そして本当は面倒くさいと思っていたことも隠してそつのない文章を書けてしまったのですが…なんか嫌な子ですよね。
ともかく、そういう思春期を送った私にとって、知誠館の生徒たちの素直さは、なんだかうらやましい、まぶしいものなのです。だからこそ学校という場がしんどくなってしまったのかな、とも思うのですが。ですがこればっかりは経験した本人にしか知りえない、理解しえないこと、苦しさ、つらさだと思うので、私が簡単に憶測でものを言うべきでないかとも思います。
話があっちこっちに行ってしまいましたが、家島に行って帰って、感じたことを文章にしてみました。今後もいろいろなプロジェクトが動いているようなので、皆とたくさん楽しんで、学んで、いろんなことを考えていきたいと思います。