政治と私
先日、前衆議院議員の北神けいろうさんのご自宅を訪れました。
知誠館のスタッフの計らいでその場が成立することになったわけですが、当日は奥様の手料理をいただきながら、本当に楽しいディスカッションの時間を共有することができました。
北神さんとは、数年間に一度、知誠館で結構長い時間話をしたことがありましたが、その後大変ご無沙汰しており、今回久しぶりにお話をする機会を迎えることになったのです。
今回の私の最大の関心事は、政治家としての北神さんを支え続けているものがいったい何なのかということを見い出すことでした。
そして、このことは政治に対してあまり関心を持てない自分自身について、改めて考え直したいという反省の意味を含んでいました。
北神さんは、お家の事情で生後9ヶ月でアメリカのカリフォルニア州にわたり、そこで18歳まで生活されています。
カリフォルニアは、アメリカの中でも移民が多い州です。
そんな環境にあっては、自ずとそれぞれの国家を意識せざるを得ない状況にあるわけです。
北神さんは、高校までアメリカの学校で教育を受け、週末は日本人学校に通うというダブルスクールを経験されました。
いわばその生活は、バイ・カルチャーの環境を形成し、その環境を通して外から自分のルーツである日本という国家を眺められてきたのかもしれません。
高校卒業後の進路を北神さんは、日本の大学へと舵取っていきます。それはご家族の希望でもあったといいます。そして、親戚が京都におられたということもあって京都の大学へ進学をされます。
日本にやってきた18歳の北神さんは、当時の日本人の国家観があまりにも希薄であったことにショックを受けたといいます。
そこには、国家に対する連帯感などといったものが、あまりも感じられないという現実があったのです。
そのことは、北神さんがアメリカで抱いていた日本人のイメージと現実との大きなギャップを意識させるきっかけでもありました。
そしてこの思いが、この危機感が、北神さん自身を政治の世界へと向かわせるエネルギーを作り出していったのです。
一方、北神さんの5歳年上の私、大学は1980年入学。それは、まさに大学がマスプロ路線を本格的に推し進めようとしていた最中の入学でもありました。
大学のマスプロ化は、大学そのものがブランドの対象へとなっていくきっかけを作り、学生たちはその消費者として位置付けられていったのかもしれません。
ボードリヤールが言う「消費社会の主体喪失」であるかのように、このマスプロ化への流れは、学生たちの主体を喪失させていったのかもしれません。
そしてその渦の中に、確実に私自身もいたわけです。
国家に対する連帯感や危機感を私自身が、あまり持っていなかったということだったのかもしれません。
北神さんが、失望した当時の日本人の中に、私自身も確実にいたというわけです。
そんな私が50も越えたあたりで、目の前の北神さんから政治の話を聞くことになりました。
国家観に関するディスカッションを交わしているのです。
「再学習」そんなキーワードが浮かんできます。
北神けいろうさんという生身の存在を通して、国家や政治といった大きなキーワードが実態を伴った感覚と同時に私の中で意味づけられていくような感覚を覚えるのです。
今後もこんなやり取りが続いていくような気配を残しながら、その日の会食は終わりを迎えました。
知誠館のスタッフの計らいでその場が成立することになったわけですが、当日は奥様の手料理をいただきながら、本当に楽しいディスカッションの時間を共有することができました。
北神さんとは、数年間に一度、知誠館で結構長い時間話をしたことがありましたが、その後大変ご無沙汰しており、今回久しぶりにお話をする機会を迎えることになったのです。
今回の私の最大の関心事は、政治家としての北神さんを支え続けているものがいったい何なのかということを見い出すことでした。
そして、このことは政治に対してあまり関心を持てない自分自身について、改めて考え直したいという反省の意味を含んでいました。
北神さんは、お家の事情で生後9ヶ月でアメリカのカリフォルニア州にわたり、そこで18歳まで生活されています。
カリフォルニアは、アメリカの中でも移民が多い州です。
そんな環境にあっては、自ずとそれぞれの国家を意識せざるを得ない状況にあるわけです。
北神さんは、高校までアメリカの学校で教育を受け、週末は日本人学校に通うというダブルスクールを経験されました。
いわばその生活は、バイ・カルチャーの環境を形成し、その環境を通して外から自分のルーツである日本という国家を眺められてきたのかもしれません。
高校卒業後の進路を北神さんは、日本の大学へと舵取っていきます。それはご家族の希望でもあったといいます。そして、親戚が京都におられたということもあって京都の大学へ進学をされます。
日本にやってきた18歳の北神さんは、当時の日本人の国家観があまりにも希薄であったことにショックを受けたといいます。
そこには、国家に対する連帯感などといったものが、あまりも感じられないという現実があったのです。
そのことは、北神さんがアメリカで抱いていた日本人のイメージと現実との大きなギャップを意識させるきっかけでもありました。
そしてこの思いが、この危機感が、北神さん自身を政治の世界へと向かわせるエネルギーを作り出していったのです。
一方、北神さんの5歳年上の私、大学は1980年入学。それは、まさに大学がマスプロ路線を本格的に推し進めようとしていた最中の入学でもありました。
大学のマスプロ化は、大学そのものがブランドの対象へとなっていくきっかけを作り、学生たちはその消費者として位置付けられていったのかもしれません。
ボードリヤールが言う「消費社会の主体喪失」であるかのように、このマスプロ化への流れは、学生たちの主体を喪失させていったのかもしれません。
そしてその渦の中に、確実に私自身もいたわけです。
国家に対する連帯感や危機感を私自身が、あまり持っていなかったということだったのかもしれません。
北神さんが、失望した当時の日本人の中に、私自身も確実にいたというわけです。
そんな私が50も越えたあたりで、目の前の北神さんから政治の話を聞くことになりました。
国家観に関するディスカッションを交わしているのです。
「再学習」そんなキーワードが浮かんできます。
北神けいろうさんという生身の存在を通して、国家や政治といった大きなキーワードが実態を伴った感覚と同時に私の中で意味づけられていくような感覚を覚えるのです。
今後もこんなやり取りが続いていくような気配を残しながら、その日の会食は終わりを迎えました。