公園にて
学びの森スタッフの樋口です。
直観的に「いいな」と感じた学びの森の日常の風景を、私なりに言葉にしてみようと思います。
ある日の運動の時間のことです。
この日、小学生9名は、全員でバドミントンをしていました。4人チームと5人チームにわかれ、ラケットを持ち、「いくよー!」のかけ声とともに、ラリーが始まります。
「シュコン!」と勢いよくシャトルが上がったのはいいのですが、下りてくるシャトルを打ち返そうとすると
「ブンッ」「ポトッ」
なかなかラリーが続きません。
同じ人に集中してジャトルが飛んで行ったり、日光が眩しくて打ち返しずらかったり、遊具の上にシャトルが乗っかってしまったり…。
それでも、その度にシャトルをみんなで拾いに行き、再びラリーが始まります。
途中で集中力が切れてしまう人も出てきます。
「(飽きたから)やめる」と言ってバドミントンの輪から抜ける人がいても、いい意味で、関与しようとする人はいません。
(場全体として、無視するなどネガティブなニュアンスの空気ではなく、「自分たちはバドミントンをしたいからするし、やめたい人は無理に続けなくてよい」というような、相互に尊重し合うような空気だったことを強調しておきます。)
上手く返せそうなシャトルが飛んできても、空振りしてしまう人もいます。
でも、軽くそのミスを笑う程度で、過度に責めたりする人はいません。
シャトルに集中しすぎるあまり、ラケットを勢いよく振って隣の人に当ててしまった人もいます。
「ごめん!!次からはもう少し離れる。」の一言で、事態は解決します。当てられた人も、「痛いけど、大丈夫だから」とフォローします。
そんなこんなで続かないラリーが続くうちに、みんなで「どうしたらうまく続けられるか?」と考えるようになります。
「コートの線を引いて、遊具に乗ったら場外扱いにしよう」
「○○さんはもう少し前に出よう」
「コート替えをしよう」
こうして、少しずつルールや戦略が生まれていきました。
時間いっぱいバドミントンをした後は、先ほど抜けた人もいっしょに、いつものように帰りました。
それぞれの人が持つスキルは、その種類も、高さや低さもバラバラです。
集団の中での位置や、場への参加の仕方も一人ひとり違います。
でも、「同じ集団に所属している」という、最も大きな枠組みの中にいることは、全員が共通しています。
そう考えると、先ほどのバドミントンの場面では、一人ひとりが持つ様々な「バラバラさ」や「違い」と、1つの「集団」としてのまとまりの2つがうまくバランスを保っていた、といえるのかもしれません。
ところで、あの日、バドミントンをして遊んだことなど、書きとめておかなければ、数日のうちに忘れてしまいます。
あの場にいたときの心地も、会話も、幾度となく公園で運動をした記憶のほんの一部でしかありません。
でも、そこに「学びの森らしさ」かもしれないと思える何かがあったこと。
それが成り立っていたのは、今学びの森に通っている一人ひとりだからこそなのか。はたまた、誰であっても成り立つ、普遍的なものがそこにあったからなのか。
問いはいかようにも立てられますし、答えもいかようにも出せます。でも、大切なのは、「学びの森らしさ」を考え続けることと、またその対比、あるいは延長として、現実にある様々な「社会」をどうよりよくしていくかを考えることなのかもしれません。

