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日誌

責任とは何か

どうも、学びの森の木下です。
久しぶりにブログを書くのですが、今までとは違った書き方をしたいと思います。

 

これまでは生徒との関りや授業の中で起こったことを僕なりに編集し、考えたことをお伝えしていました。

ですが、それではどうしても僕のフィルターや解釈を述べることになります。

それよりも、もっと生のままの情報を発信していき、読んだ人と一緒に考える、対話できるようなブログないしはメディアをつくっていきたい、そう考えるようになったからです。

 

なので、今後は

・何を取り扱ったのか

・どんな問いや考えが出てきたのか

・自分何を考えたのか

を中心にブログを書いていきたいと思います。

 

〇参加した授業

中高生対象<ことばゼミ>

 

〇資料

朝日新聞「いじめと君」ページより以下を抜粋

「ほんとうのこと」石田衣良さん

「大人の責任をめぐって」田中泯さん

「外への発信と大人の責任」志茂田景樹さん

「自死をめぐって」高史明さん

 

〇出てきた問い

・責任とは何か?

→多様な人が生きるこの社会の中で、そもそも「責任」とは何なのか?

 どうすることが「責任を果たす」ことになるのか?

 

 例えば…

 ・「いじめは子どもの責任ではなく大人の責任だ」という意見に対して

 いじめたことはもちろん許されることではない、いじめられた側の気持ちは想像してもしきれない

 しかしいじめた側は、大人になってからでしかいじめた「責任」を負うことはできない

 だとすれば、子どもはまだ色々なことを経験している過程であり、経験したことで成長する未来がある

 こうした意見における「大人」と「子ども」という存在そのもの、負う「責任」の違いは?

 また、いじめられていることをネットに発信しても良いだろう

 実際に最近、SNSでいじめの瞬間をスマホで撮った映像が匿名でSNSにアップされたケースもある

 ではその発信を受け取った大人は、それをどう捉え、どんな行動をすべきなのか?

 

〇自分は何を考えたのか?

・「責任」について

→そもそも責任とは何か?何をしたら責任をひきうけたことになるのか?は正直わからない。

 それは社会で起きているマクロな事柄に対しても、自分とパートナーとの関係などのミクロな事柄に対してもそう思う。

 だからずっと考え続けるしかない。

 ただ一つ言えるのは、自分という存在、言動が他者(自然も含む)と「関係している」という事実があるということ。

 「関係している」ということを無いものとする、断ち切るのは簡単だし楽(そうやって生きてきた節あり)だが、そうしてはいけない/したくないと思う自分がいる。

 

・「関係している」ということについて

→あらゆることが「関係している」とすれば、生きるや死ぬということもまた自分一人で完結しているということはない。

 それについて頭では理解できても、実感として信じきれない自分もいる。

 実感としてもあるが、あえてそこに目を向けたくないだけなのか?

 そう考える自分がいるのはなぜか?

 

・SNSについて

→SNSはそもそも他者とのつながりや関係をつくることが目的で生まれたサービス、技術ではないのか?

 もしそうであるならば、資料の高史明さんの文章に出てくる、あるいは自分が考える「つながり」と違いはあるのか?

 

・学びの森の日常の中で

→この授業で自分が何を考え、何を発言するかについても「責任」が生じている。

 もっと言えば、生徒やスタッフとの日常のやりとり、その瞬間で自分がどう反応、応答するかにも「責任」は生じている。

 ここで言う「責任」は何を指すのか?

 それを考え、常に省察し続けることは大事にしたい。

 

こんな感じですかね。

またこれをもとに色々な人と対話ができたら嬉しいです。

あ、今までの形式のブログもアップしていくつもりですので、そちらもお楽しみに!

では、また~