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日誌

続けること

どうも、学びの森のキノシタです。

前回のブログの冒頭で少し触れたんですが、最近ブログが書けないんです。笑

 

こうしてPCの画面とにらめっこはするんですが、少し書いたら手が止まってしまうような状況が続いております。

なんというか、今の自分が言葉にしてもなぁ~というか、なんかちゃうな~となってしまうんです。

 

今は言葉に「する」より「触れる」ことへの欲望が大きいのかもしれません。

というのも、日々学びの森で起こっていることや目の前の生徒たちをどう見るかを考え続けているものの、自分の見え方が広がったり深まったりしないことには見えるものも見えないとも思っていて、その機会を今までは学びの森の「外」に求めていたのですが、「外」にも色々あるやろうと。

その「外」が今は「本」なんですね。

 

また、これまでは「研究会のために」とか「これは読むべき」とかで本を選んでいたんですが、それももうやめようと。

今とにかく読みたいと思うものを手に取って読もうと。

そうやっているうちに、どんどん本に、特に小説やエッセイにのめり込んでいる自分がいました。

 

本の内容ももちろんめちゃくちゃ面白いんですが、だんだんそれを書いた人に興味が湧いてきました。

なんでこんな文章が書けるんやろう?とかなんでこんな内容にしたかったんやろう?いや、せざるを得なかったんかな?とか、いっぱい「?」が出てくるように。

 

実際それらの疑問を作者に聞くことはできませんが、想像することはできる。

想像したいからその作者の別の本も、全然違う作者の本も読んでみたくなる。

そして自分だったらどうかなと考えてみたりする。

これがまぁ楽しいこと楽しいこと。

 

そんな中、幸田文さんのエッセイ集「木」を読んでしまったのです…!

幸田文さんは父である露伴さんに、徹底的に教育されたらしいのですが、その「教養」みたいなものがとんでもない。

木や草花ひとつでこれだけのことを考えられる人がいるのか、しかもこんなにも素直に言葉で表現できる人がいるのか、と感動しっぱなし。

 

木や草花に対して「これをどう見るか・どう考えたら良いか」と真剣に向き合うことなんて、僕はしたことがありません。

おそらく文さんは、木や草花だけでなく、あらゆる人・モノ・ことに対して自分はどう考えるかどう言葉にするか、そのために学び続けてきた人なんだろうと思います。

しかもその学ぶ「姿勢」がこれまた半端ない。

 

「ひのき」というエッセイの中で、こんな文章が出てきます。

 

去年の晩秋にも、ここへ檜を見にきているのだが、その時から夏にもぜひもう一度と思っていた。

そういう思いかたは私に、抜きがたい家庭人の癖がついているからだとおもう。

若い頃にしみこんだ、料理も衣服も住居も、最低一年をめぐって経験しないことには、話にならないのだ、と痛感したその思いが、今も時にふれて顔をだすのである。

檜のような、いつ見ても同じような姿をしている木を、秋にみただけでは済まされずに、夏にもまた見ようという気を起こすのは、植物を丁寧に見ようとする心がけからというより、家事業で身につけた経験から出てくる、いわば要心みたいなものである。

一年めぐらないと確かではない、という要心である。

その要心をしてよかったと思う。

秋と夏では、檜の様子はまるでちがった。

 

と、この後夏の檜の描写が続きます。

僕は「一年めぐらないと確かではない」という部分に文さんの学ぶ「姿勢」がよく表れているような気がするんです。

 

何かをし始めると、楽しい時期って割とすぐにやってくる。

でもしばらくすると楽しくない時期がやってきて、あれ?こんなはずでは…となったりする。

挙句、最初から楽しくなかったんだと思う自分まで出てきて、やめてしまう。

少なからず僕はこういう経験をしたことがあります。

 

でも本当にそれでいいのか?そう在りたいのか?
文さんの言うように、最低一年をめぐって経験しないことには「話にならない」んじゃないか?

僕自身の経験を振り返って、大事なことができてないような気になりました。

 

こういう文章を読んでしまうと、自分の愚かさとか書く文章の稚拙さが嫌で嫌で仕方なくなると言いますか…。

途端に恥ずかしくなって、ブログ書けない!となった次第です。笑

 

でもまぁこうして本を読むことや、そこで感じたこと、考えたことを言葉にし続けることも「一年めぐらないと確かではない」のでしょう。

というわけで、続けてみたいと思います。

 

あぁまた言いたいことの1/10も言葉にできなかった気がする、、辛い、、。

では、また~