学びの森で<全体集会>をする意味
どうもこんばんは、学びの森のキノシタです。
先日、2回目の<全体集会>がありましたので、その時の様子をお伝えしたいと思います。
まずはじめに、前回の話し合いの内容をまとめた議事録をみんなに渡して、その内容を共有しました。
今回みんなで話し合いたいのは
・「どんな情報」を「どんな方法」で共有するのがいいか?
というもの。
これについて、みんなの意見をポストイットに書き、模造紙に貼り付ける作業をしてもらいました。
じっくり考える時間を取ってみると、少しずつ意見が出始めたので、
それを僕が大きなカテゴリーに分けながら、出ていた意見をみんなで共有していきました。
授業のはじめの合図(チャイムのようなもの)がほしいっていう意見もあるけど、それはみんなどう?と投げかけると
休み時間に本を読んだり絵を描いたり、何かに没頭してしまうからあったほうが嬉しい。
でもそうやって合図があると、自分で時計を見て行動する習慣がなくなると思う。
イベントのときだけ合図をして、その他は自分たちでやったほうがいいんちゃう?
と、三者三様の意見が返ってきました。
その他にも、生徒から出てきた意見をもとにいろんな質問をしてみましたが、本当に意見がバラバラだということがわかりました。
すると、ある生徒がこんな意見をスッと貼り付けました。
”学校っぽくないものにしないとアカンと思う”
お!と思ってその子に理由を聞いてみると、
だって、せっかく学びの森に来てんねんから、学校っぽくなったら意味ないと思うから。と答えてくれました。
他の生徒の顔を見回すと、うんうんと頷いている生徒もいれば、それはどうなんやろうと考えてる生徒もいる感じでした。
生徒の中にも、学校っぽいものを求めている子もいれば、ぜんぜん違うものを求めている子もいて、
それぞれの思いの強さがグラデーションになっているんだなと思いました。
今回の話し合いで何かが明確に決まったわけではありませんが、とりあえずやってみようとなったこともありました。
それは、<掲示板(ホワイトボード)を設置する>というものです。
休憩室の横にホワイトボードを設置し、いろんな情報を書いたり貼ったり…。
スタッフだけでなく生徒も書き込めるもので、見ていて楽しいと思うような掲示板をつくってみることになったんです。
これはこれでやってみようと思うんですが、みんなが使いたいと思う掲示板をつくるための「仕掛け」を考えるのは、
相当骨が折れそうやな…とも思いました。どうしよう…笑
でもそれよりもまず、「学校っぽくないものにしないとアカンと思う」という生徒の意見をどう捉えるか…。
全体集会のあと、その子に「学校っぽくないものにするためには、どうしたらいいと思う?」と聞いてみたんです。
するとその子は、「あんな会議みたいなんをやめたらいいやん」と即答。
その子によれば、<全体集会>のような話し合いの場を持つことそれ自体が「学校っぽい」し、
みんなそういう場での「学校っぽい」振る舞いも身につけてるし、
そこで決まったことは”みんなで決めたから守らないといけない”という空気が出来上がることも「学校っぽい」とのことでした。
僕はこの意見に面食らいましたが、それからずーっと考えてみて、やっぱりその子の言う通りやなと今は思っています。
何のために<全体集会>をやるのか?
学校ではない「学びの森」という場所における<全体集会>の持つ意味は?
それが新しくやってきた子や外部の人にとってどんな見え方をするのか?
そんな問いが今僕の頭をぐるぐる回り続けています。
まだなかなかことばにするのは難しいんですが、ひとつだけはっきりしているのは、
”「学びの森」は閉じられた共同体であってはいけない”ということです。
単なる「居場所」ではなく、一人ひとりの生徒が社会に/他者に開かれた場所でないといけないと思うんです。
<全体集会>もそのベースの上にないと、窮屈な枠とそこからはみ出さないようにしないといけない雰囲気、
外から見たら違和感のある共同体を作り出してしまう危険性があるような気がしました。
これからもっと、さっきの問いに対する答えを考えていかないとなぁー…。
これは難しそう…。
では、また~