私は見えるものを描くのではない。見たものを描くのだ。
こんばんは、学びの森のキノシタです。
妙なタイトルになっておりますが、実はこれが「ゼミ」のテーマだったんです。
<ことば>や<数学の世界>と並ぶ、まだ名前のないゼミ。
ここにはフリースクールとハイスクール両方の生徒が参加しているので、仮に<中高生ゼミ>としておきます。
中高生ゼミで最初に扱われたのは「自画像」でした。
ゴッホはその短い画家人生の中でも、自画像をたくさん描いた人なんだそうです。
その自画像から、僕たちは何を読み取ることができるのか?ということをみんなで考えました。
そもそも「自画像」は何のために描くのか?
ゴッホの絵を見ていると、ただ単に現実の「自分」を描いているのではなく、こんな風にありたい・見られたい「自分」を描いているようにも見えます。
その瞬間瞬間に移り変わっていく「自分」を、何とかして描きとめておきたかったのか
そんな「自分」を誰かに(自分自身にも)わかってほしいと思ったのか
それはゴッホにしかわかりませんが、そういう気持ちになるときが僕にもあるなぁと思いました。
生徒たちはゴッホの自画像を見て、何を考えたのでしょうか?
また聞いてみたいと思います。
さて、そんな「自画像」というテーマからスタートした中高生ゼミですが
今回はムンクの『不安』・『絶望』・『叫び』の3つの作品を取り上げました。
私は2人の友人と歩道を歩いていた。
太陽は沈みかけていた。
突然、空が血の赤色に変わった。
私は立ち止まり、酷い疲れを感じて柵に寄りかかった。
それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと街並みにかぶさるようであった。
友人は歩き続けたが、私はそこで立ち尽くしたまま不安に震え、戦っていた。
そして私は、自然を貫く果てしない叫びを聴いた。
(ムンクの日記より)
3つの作品と、日記の文章を見ながら、感じ取ったことを自由に話し合いました。
ある生徒が、これも一種の「自画像」なのかもしれない、と言いました。
ムンクの『不安』は、ゴッホのように「自分」をモチーフに描いたものではありません。
しかし、「他者」の存在を通して、そこから逸脱している部分としての「自分」を描いているのであれば、それは「自画像」と言えるのではないか。
「自分」と「他者」を分ける境界線は常に曖昧で、その時々の関係性によって変化するもの
ムンクの『不安』は、その関係性を描くことによって「自分」を描いているのかもしれない、とその生徒は考えたようです。
いやいや、なんでそんなこと考えれんの?!
僕が中高生のときなんて、今日の晩飯何かな~とかしか考えへんかったで?!
という具合に、ものすごい意見がばんばん飛び交う中高生ゼミとなっております。
タイトルの「私は見えるものを描くのではない。見たものを描くのだ。」について。
この言葉は、ムンクのスケッチブックに描き残されていたものだそうです。
ではいったい「見えるもの」と「見たもの」とは、どういう意味なのか?
生徒たちからは
・「見えるもの」はこの現実そのもので、「見たもの」はその現実を自分というフィルターを通して編集されたもの
・「見えるもの」はとても客観的でみんなに共有できるもので、「見たもの」はとても主観的なもの
・「見たもの」には、それを見た人の感情や思考、無意識的な反応も入ってる
・「見えるもの」は客観的な「事実」で、「見たもの」は主観的な「体験」みたいな感じ
という意見が出てきました。
みんなめちゃくちゃ本質的…。
19世紀後半、「印象派」と呼ばれる画家たちの登場によって、<現実の見方の転換>が起こります。
それは生徒たちの言うように、客観的な事実として現実を捉えるのではなく
主観的な感情・心理・意識・無意識の総体として現実を捉えようという試みでした。
ムンクの言葉には、そういった転換への思いが込められていたのかもしれません。
いや~、やっぱりゼミは参加してナンボですね!めちゃくちゃ楽しかったです!
そして次回のテーマはこちら
生徒からどんな「自画像」が飛び出してくるのか、乞うご期待!
僕も「自画像」考えないと…。
では、また~