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日誌

学びという変化

 

ある日のこと、連携している通信制高校の課題に取り組んでいた学びの森ハイスクールの生徒。

 

 

「これ、合ってるかどうか確認してください」と現代文の教科書と問題を渡してきました。

 

 

読解問題を解いていても、普段は解答につながるヒントを求めることが多かったので、彼が「正解かどうか確認してほしい」と言ってきたことでまず少し「おっ?」と思ったのですが、渡された教科書を見てみると、こんな書き込みが。

 

 

 

 

 

 

 

 

この文章とこの文章は同じことを伝えようとしている、というのを読みとり、線や記号を使ってその内容を教科書に書き込んでいたのです。

 

 

ことあるごとに「文章の読み書きが苦手」と語り、教科学習的な読み書きに本格的に取り組むことを敬遠しがちだった彼がこんな風に文章を論理的に読み解き、しかも問題で問われている形で答えられていた変化に、「すごいな!」と声をあげてしまいました。

 

 

彼は毎週金曜日に開講している「大学入試対策講座」で現代文の大段落ごとの要約練習に取り組んでおり、その成果があがっている模様。

 

 

自分でも「読める」という感覚が以前よりあるらしく、それを少し嬉しそうに話す様子を見てこちらも嬉しくなりました。

 

 

 

 

 

「難しい」「分からへん」と唸りながら要約練習に取り組んでいる様子を幾度か見てきたのですが、「分からへん」という苦しい状態があるからこそ人は何かを見つけようとするし、「分からへん」現状をちゃんと受けとめるからこそ真剣に考えようとする、だからこそ身につく力がある。そしてだからこそ、「できるようになる」という学びの原初的な喜びを得られる。

 

 

こうした「分からへん」状態から「できた」「できるようになった」という変化、それを喜ぶ心の動きを学びのひとつと捉えるのであれば、この「学び」はここで語ったような教科学習だけに限らず、自分の人生を生きることや人との関わりの中で生きることの全てに起こるのだと思います。

 

 

こんな経験を、学びの森という場所だけに限らず、いろんな場所で蓄積していってほしいと思います。

 

 

 

 

学びの森は主に学習面から生徒たちをサポートする場なので、まずはそこから実現することをこれからも考え続けにゃなりません。

 

 

明日も、明後日も。

 

 

 

 

…と自分に釘を刺しつつ筆を擱きます。(正確には「タイピングをやめる」になるのですけど、そうすると途端にムードがなくなりません?)

 

 

春の陽気が嬉しくてたまらないタナカがお届けしました。