関係性という文脈
こんにちは、学びの森のタナカです。
学びの森では、毎月2回「外遊び」という時間を設けています。
2時間目と3時間目の間にある中休みを20分拡大して、近くの公園でボール遊びなどをして遊ぶこの時間。
先日、今年最後の外遊びがありました。
この外遊び、学びの森に入って間もない頃は体力の無さゆえに運動を億劫に思う気持ちもあり、一緒に外に行っても遊びには参加せず眺めていることが多かったのですが、最近は我先に遊びに参加することが増えました。
そして本気で生徒たちとバレー(風ボール遊び)やバドミントンで遊び、負けたときや失敗したときは本気で悔しがるようになってきました。
そうすると、本気で楽しいことが分かってきました。
そしてそんな時間を一緒に過ごしていると、生徒との関係性も以前よりやわらかいものに、徐々に変化してきたように思います。
日々の対話も学習も、すべてその人たちの個性と関係性という文脈の上に成り立っていると私は考えています。
Aさんとの関係性があるからこそこの言葉は応援の言葉になり得るが、Bさんとの関係性だとこの言葉はプレッシャーになるかもしれない。Cさんにこの言葉を言っても笑いの種になるだけだけれど、Dさんは傷つくかもしれない。この人となら緊張せず一緒にいられるけど、あの人とはまだ少し緊張する。
人間関係すべてにおいて言えることだと思いますが、文脈が違うと行動や反応が変わってきます。
生徒と講師の関係性も「人間関係」のひとつなので、そこで行われる対話や学習は、その人たちの関係性が影響するはず…と考えると、その土台となる関係性がカチンコチンでいびつなものであるよりかは、やわらかくスムーズなものであった方がいいのではないかと思います。(生徒と講師という関係性である以上、我々講師が自らの立場に対して自覚的である必要がある、というのはもちろんですが)
何か大きなイベントに取り組んだわけでもなく、一対一でじっくり教科指導を行なったり相談に乗ったわけでもない。
ただ一緒に本気で遊んだりおしゃべりしたりといった日々の余白の時間の蓄積が、経験の共有を日常で地道に重ねていくことが、対話や学習の土台となる、やわらかい人と人との関係性をつくりあげていくのではないかと改めて感じました。
この歳になっても(なったからこそ?)、いまだに自分のいつものパターンを崩すことは苦手で抵抗があります。
でもそれを崩してみて見えたもののことを思うと、簡単にそう出来なくても、崩してみたい、と思えます。
そんなことを考えた外遊びでした。