個人として出会う
先日、立命館大学で教職につくためのゼミで学ぶ大学生たちと、
ハイスクールの生徒たちの交流会を開催しました。
きっかけはひとりの生徒の「立命館大学を見てみたい」という一言でした。
ハイスクールの生徒の中には、受験を控えている子もいます。
また、「大学」ってそもそもどんなところなのか?
が具体的にイメージできていない子もいます。
それなら見ればいい!
大学生に直接聞けばいい!
そう思った僕は、前々から親しくさせてもらっている先生に連絡してみました。
そして、あれよあれよという間に今回の交流の場ができあがっていったのです。
ハイスクールのゼミでは、その準備のために大学のパンフレットを引っ張り出し
そこに描かれている「大学(生)像」を読み解こうとしたり、
大学生とどんな話がしたいか、聞きたいこと、言いたいことは何か
この交流の場を持つ目的は何かについて考えました。
そして迎えた当日。
教室には約40名ほどの若者が集まりました。
前に立ってみると、思わず「多いなッ!」とこぼしてしまうぐらいの威圧感でした。
ブログのタイトルである
「個人として出会う」
は、生徒たちが考えた交流会の場を持つ目的です。
その目的達成に向けて、まずは大学生の側に「不登校(児童・生徒)」についてのイメージを聞きました。
・きっかけはいじめ、人間関係
・根暗
・保健室通い
・勉強ができない
・優しい、気遣いができる
・学校に行く必要性を感じてない
など、色んな意見が出てきました。
次に、ハイスクールの生徒たちに「大学(生)」についてのイメージを聞きました。
・あこがれる、自由、楽しそう、世界が広がる
・小、中、高に比べ規則がゆるい
・なんとなく行ってる
・行く意味があるかわからない
・人間関係が楽
・お金の使い方が荒くなりそう
・目標、やりたいことがないとやっていけなさそう
など、こちらも色んな意見が出ました。
でも、これらのイメージは本当に自分たちに当てはまるのか?
それをお互いに整理し合ったり、壊し合うために
自己紹介を含め、じーっくり話し合ってもらいました。
スタートの合図をしたとたん、教室からドッと対話の声が溢れました。
これは正直予想外のことでした。
僕も生徒たちも(大学生も?)緊張しまくっていたので、沈黙からのスタートだと思っていたのです。
でもみんなしゃべるしゃべる・・・。
そのエネルギーたるや、すさまじいものがありました。
気づけば、20分×2回の話し合いはあっという間に終わり
今日話してみての振り返りへ。
すると、お互いのイメージが少し変わったようです。
個人として、言い換えれば生の現実と出会うって大事やなぁとつくづく思いました。
僕も学びの森に初めてやってきたとき、生徒たちと話をして
それまでの「不登校」のイメージが180度変わったことを思い出しました。
「個人として出会う」
そこには、「不登校の生徒だ」というレンズ越しに自分たちを見るのではなく
ひとりの「個人」として自分たちを見てほしいというメッセージがあるのかもしれません。
大学生という、自分たちと年の近い若者との出会いが、今後どんな展開をうむのか?
めちゃくちゃ楽しみです。
ちなみに次回は、「適応ー不適応」という言葉をめぐって大学生たちと話し合います。
どんな様子だったのか、また報告しまーす。