学びの森の「先生」と「生徒」である前に
こんにちは、学びの森のタナカです。
今日はわりと個人的な話をしたいと思います。
本日のタナカ、目が腫れていていつもの半分くらいの大きさしかありません。
学びの森に着いて早々、木下先生に「めばちこですか?」と聞かれましたが違います。
昨夜、泣きすぎたせいで目が腫れているのです。
ある舞台の映像を見て涙していたのですが、作品の世界にのめりこみ、自分の心をぐらぐらと揺さぶられ、涙を流すことでその感情の揺れ動きを表出させ消化するという行為に久しぶりに夢中になりながらも、そんな自分を冷めた目で客観的に見つめながら「おもろいな」と思っている「もうひとりの自分」もどこかにいました。
何が「おもろい」のかと言うと、「こういうものがこういう風に自分の胸を打つんや、心を揺さぶるんや」と、作品にのめりこむ自分の心の動きをもうひとりの自分が俯瞰的に認識していたことです。
どんなことの、どこに大きく感情を揺さぶられるか、どう受け取るからそういう心の動きになるのか。そういうことって、その人の心のやわらかいところ、芯というか核心というか…に結構迫るんじゃないかと思います。そして、その人の豊かさやあたたかさ、真実味のようなものって、そういうところにこそ表れるんじゃないかな、とも。
そう考えた時に、学びの森に来てる生徒たちのそういう部分、心の大きく動く瞬間とか、その時にどんなことを感じてるかとか、そういう心の根っこの部分を私はあんまり知らんかもしれんなぁ、と思ったんです。
カードゲームが好きな人もいれば、とある漫画が好きな人、ゲームが好きな人、スポーツが好きな人、洋楽が好きな人。みんな語らせたら、結構語ってくれるんですよね。私の知らんだけで、みんなそれぞれ好きな、大切な世界を持っていて、そこで心を動かしていろんな感情を受け取ってるんやろうなぁと。
それを知りたい、あるいは知らなくとも、一人ひとりが持っているはずのそういう心の動きがそれぞれの人生にある、ということを常に意識していたいなーと思ったのです。
学びの森は「学び」を通して自信を取り戻し、その「学び」で次に進む道をつくり出すことを目標とする場所なので、教科的な学習であれ探究的な学習であれ、基本的には「学習」というフィルターを通して生徒たちを見ることが多くなります。
ですが、私が学びの森の「先生」である前に、ある舞台映像に心をつかまれめばちこかと思われるほど目を腫らすまで泣いてしまうタナカマナミという名前を持った一人の人間であるのと同様に、彼らは学びの森の「生徒」である前にそれぞれに名前を持った一人の人間であり、それぞれに心を大きく動かす瞬間をきっと持っている。そういう瞬間が、生身の人間としての存在により重みを持たせるようにも思います。
だからこそ、みんなの持ってるそういう瞬間にもっと敏感でありたいなと。
…と、これを書いてるあいだに腫れがだいぶひいてきて、私の目に二重まぶたが戻ってきてくれました。(腫れすぎて一重になってた)
心動かすのはいいけど、さすがに翌日の顔面に影響を及ぼすまで泣くのは次からはやめようと思います。