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卒業生より
-みづきさん-

ハイスクール みづきさん

中2~原因不明のめまいの持病で学校に行けない日が増え、中学の半分は通学できず。 全日制高校に進学するも、高2でストレスから不登校に。 高2秋~高3卒業まで学びの森に通学。その後、立命館大学政策科学部へ。

みなさまへ

はじめまして、みづきです。2019年3月に学びの森を卒業し、4月から大学生となりました。私が学びの森を卒業する前に卒業制作として書いた自分史を読んでいただけて嬉しいです!一個人の体験談と思ってさらっと読んでください!
自分史

~ 学びの森に来て巣立つまで ~

1. はじめの一歩 〜学びの森に出会うまで〜

● 文化祭騒動

中学生の頃から私は文化祭が苦手だった。理由は一つ。つまらないからだ。高校生になったらもっと楽しめるかもしれない。そう信じていた。ところが、高校1年生になってそんな私の思いは一瞬で消え去った。それどころか苦手だったのが大嫌いに変わってしまった。誰もやる人がいなかったからリーダーになった。人前に立って皆を引っ張って行くという役目から逃げたかったのにまた捕まってしまった。文化祭なんてやる必要ない、そう思っていた。2年生では絶対にリーダーになるものか、と強く心に決めた。ところが、2年生でもまたリーダーになってしまった。一年生の時と違って立候補はしなかったのに、担任の先生からやってほしいと頼まれたのだ。断れなかった。断るということが怖かった。やるといった以上は全力でやらねばならない。自分に鞭を打ち続けた。友達に協力してほしい、と頼むこと、悩みを打ち明けることはできなかった。先生に相談したが、こう返された。「学校の先生になりたいと言っているあなたがこれくらいのことでへこたれてどうする。それじゃあ、学校の先生になれないよ。」私はがっかりした。リーダーになってくれないか、と頼まれた時に先生は困ったときはいつでも力になる、そう言われたからだ。先生への信頼度はゼロになった。こんな先生、大嫌いだ。そう思った。7月末と8月末から9月初旬までの約3週間。たったそれだけの期間で私の心と体はボロボロになっていった。なんとか文化祭は乗り切れたものの、勉強への意欲も、学校へ行く意欲も、朝起きて登校の準備をする意欲もなくなった。気が付くと、「学校って何なんだろう。」「私は、なぜ学校に行っているのだろうか。」そんなことを考えていた。

● 優等生

高校の入学式で新入生の代表として宣誓をした。そのことが私を苦しめる発端になるとは夢にも思わなかった。1年生の頃からよくできる子だと学校の先生から思われ続け、学校の看板として扱われていた。そのことを気にしていないと思っていたが、2年生になってから段々とその期待を重く感じるようになった。日々の勉強も国公立の大学を目指して、先生の期待に応えるために必死に取り組んだ。分からないところがあっても素直に先生に「分かりません。」と言えなかった。「こんなところで分からんのか、藤村は。」先生にそう思われたくなかった。先生の前では常にできる子でい続けたかったのだと思う。そのことがしんどいと分かっていながらも。

● 朝日新聞

文化祭の準備期間中から学校に行ったり行かなかったりするようになり、文化祭が 終わった辺りから学校に行かなくなった。いや、行けなくなったのだ。そして、全日制の高校から通信の高校に転学することを決めた。1週間足らずの出来事だった。「高校を通信に変えたい。」と、両親に告げた時、両親はどこか嬉しそうだった。

通信の高校はスクーリングがある。だが、毎日ではない。となると、平日は一人で過ごすことになる。喋ることが大好きな私は、同世代の人と関われる場所はないかと探し始めた。ある日、ずっと家に籠っていたから久しぶりに外に出てみようと思い、新聞を取りに行った。新聞の一面に「いま子どもたちは 新たな学び場」という言葉を見つけた。体中に電気が走った。走って家に帰って、記事を読んだ。そして、「ここに(学びの森)行きたい。ここに行ったら私は変われる気がする。」そう直感で感じた。あの時朝日新聞をとっていなかったら、あの時沢木さんが学びの森の事を記事にしていなかったら、私はどうなっていたのだろうか。奇跡的な出来事が同じ時に起こったことで私は新たな道を歩み始めることとなった。

2. ゼロからイチへ

● 田中先生

体験入学初日に田中先生に少し自分の過去を話した。しばらくすると涙が出てきた。びっくりした。初対面の人の前で涙を流すなんて今までなかったからだ。まったくまとまりのない私の話に相槌を打ちながら聞いてくださった田中先生を見て、「この先生だったら心から信頼することができるかも。」と思った。

● 宝塚

田中先生の影響で宝塚にはまった。産まれて初めて大好きなものができた。自分へのご褒美ができた。嬉しかった。それと同時に過去の自分は何を楽しみに日々を過ごしていたのか不思議に思った。受験勉強を本格的に始める前の時期に宝塚に出会って本当に良かった。宝塚がなかったら受験を乗り切ることはできなかったのではないかと思うくらいだ。

● 受験勉強、スタート

ずっと敷かれたレールの上を歩いてきた私。そんな私が進路を自分の頭で考えるようになった。そして、田中先生、桜井先生と本格的に受験勉強を始めたのだ。進むべき道が決まりホッと安心した反面、体が弱く持病のある自分が受験を乗り切れるのか。関関同立と言われる難関大学に合格することができるのだろうか。高校の先生に見返りできるだろうか。(高校を辞める時に先生から「ここで辞めたら国公立は絶対に行けない。関関同立だって難しい。よくて産近甲龍だろう。」と言われていた。だから、ギャフンと言わせたかった。)そんな不安があった。

● 亀岡での祖母との暮らし

学びの森に通うようになってから親元を離れ、母方の祖母と二人暮らしをすることになった。最初のうちは順調に進んでいるように見えたが、だんだんと苦しくなってきた。おおちゃくな祖母ときっちりしたい私。性格の違いにも苦しんだ。他にも、毎日のように愚痴を言われたり、心配事を相談されたりして心に余裕を持てなくなった。冷蔵庫の食品を使わずに腐らせるからと、私が毎日の食事の献立を考えたりしていた。祖母の孫に対する依存が日に日に高まっていき私は耐えられなくなっていった。実家に帰るたびに両親に愚痴を言いまくった。

3. もうダメです…。

● 初めてのお願い?

祖母と亀岡で暮らすことが苦痛で仕方なくなり、思い切って母に「和知の家から学びの森に通いたい。通わしてほしい。やっぱり祖母と暮らすのは無理だ。」と言ってみた。許してもらえないのではないかという予想していたが、母は「いいよ。もっと早くそう言ってあげたらよかったね。」と言ってくれた。産まれて初めて自分からお願いした気がした。それまではお願いしたいことがあっても自分から言うことはなく、母が私の様子がおかしいと声をかけてくれるまで自分の心の中に押し込んでいた。

思い返してみると、私は幼少期から両親の顔色を窺い、常にいい子でいようとしていた。怒られることが大嫌いだったから怒られないように、怒られないように、と思って行動してきた。体が弱かった私は両親に心配ばかりかけていた。だから、つまらないことで両親の負担を増やしてはいけないと勝手に思い込んでいた。つらいことがあってもできる限り自分の中だけで消化しようとしていた。両親に手のかかる子だと思われたくなかった。私は、学校でも家でも優等生でいようとしていたのだ。

● 山本さんとのカウンセリング

昨年9月。受験に対する焦りと不安が増していく中で、フラッシュバックに苦しんだ。高校を休み始めた時のこと、文化祭の準備期間のこと、先生に相談したのに全く解決しなかったこと、高校辞めたら人生終わり同然だという感じに言われたこと…。苦しくてもがいていた過去が1日の中で何度も頭の中に現れた。体調も崩してばかりの日々が続いた。そんなときに、山本さんと話してみてはどうだろうか、と塾長から提案があり、話すことになった。たくさんのことを話した。ありきたりな受験に対する不安を話したりしたが、過去のことも話した。過去のことを話す中で、私は過去に 縛られていることに気が付いた。過去に縛られすぎて前を向けていなかったのだ。敷かれていたレールの上を歩くだけだった日々から自分の頭で考え、選択していく日々に変わってきていることに戸惑っていたのだ。山本さんと話すことで自分の中に溜まっていたものが一気に外に出て言った感じがした。「変わりたい。」そう強く思うようになった。

4. 七転び八起き、ではなく九十九転び百起き

● E判定

5月、8月と模試を受けてきた。8月の模試で、第一志望の立命館大学政策科学部D判定、第二志望の龍谷大学政策学部A判定になった。「これは絶対に受かる。」そう思っていたが、体調が優れず、ほとんど勉強ができない状態が約2か月続いて迎えた10月の模試。受験前最後の模試だ。受験の最中から自分のできなさ加減がはっきりと分かり、自己採点をしてさらに落ち込んだ。12月から始めて約10か月。体調が悪いことが多かったとはいえそれなりに勉強してきたつもりだった。なのに、結果が出ない。そのことがすごくすごく悔しかった。1月末に届いた模試の結果。立命館大学E判定、龍谷大学D判定。悪いだろうと予想はしていたが、いざ目の前に来るとショックは何十倍にも大きくなった。急にめまいがして、何もかもが嫌になった。勉強することも、大学に行くことも。受験を辞めたいとも思った。母に、「もう受験を辞めてもいいかな。」と言った。母は反対せずに「辞めたらいいやん。」と言った。びっくりした。でも、そう言われて、やっぱりやろうと思えた。それでも、なかなか立ち直れなかった。参考書を見るのが嫌で仕方なかった。

● 3日間勉強禁止令発令

「模試の結果から立ち直れない、やる気が出ない。」正直に田中先生に話すと、先生から3日間勉強禁止令が発令された。12月の初めのことだ。先生から禁止が出ると気持ちが楽になった。3日間はひたすらテレビを見続けた。「深夜食堂」、「LittleForest」などの映画、宝塚の映像などを思う存分見た。いいリフレッシュになった。3日目に心がすっきりしている自分がいた。まだまだ頑張れる気がした。

5. 新しい自分

3日間勉強禁止令発令後、少しずつ自分が変わっていった。メンタルが弱くて、すぐに体に表れ、くよくよする自分が大嫌いだったし、受け入れることができなかった。体調の悪さを理由に自分の頭の中で計画していた勉強ができないという状況にイライラしていた。しかし、徐々に今の自分が受け入れられるようになった。すると、気持ちが楽になった。今まで心の中の糸をピーンと張っている状態だったのがなくなって いった。体調が悪くて思うように勉強ができなくても「仕方ない。明日、出来たらいいか。」と思って、自分を責めなくなった。夜寝る前に、「今日も1日よく頑張りました。」と自分で自分をほめるようになった。自分を変えたいと常に思っていた私は、少しずつ変わっていくのが嬉しくて仕方なかった。

入試の日には自分を俯瞰して見ることができていた。休み時間に必死に参考書を読んでいる周りの受験生を見て「みんな余裕がないんだな。」って思っていた。受験が1日終わるたびにやり切った感があった。7回受験したが、どの時も後悔することはなかった。失敗したこともあったが、その失敗を悔やんで引きずることはなかった。

6. 学びの森での1年半

● この1年半を振り返ると…

私は、幼いころから常にいい子であることを心掛けていた。そして、いい子であることが自らの義務だと感じていた。だから、何か新しいことを始めるとき、新しい選択をするとき、真っ先に頭に浮かぶことは、そのことが他の人から見て、いいことなのか、悪いことなのか、ということである。自分がやりたいからやってみる、ではなかった。今から思うと、私には、周囲の人からつくられた「美月」でいることに執着していたし、その「美月」が本当の自分像だと信じていたのだと思う。だから、その「美月」から離れられなかったし、自分自身で「私」がどんな人間で、どんな風になりたいのかを考えることはほぼなかった。

全日制の高校を辞めて通信制の高校に転学するということを決断したのは早かった。しかし、全日制の高校を途中で辞めたことをずっと「逃げ」だと考えていた。自分は、辛くて、しんどいことから逃げたのだと。だから、「この先、辛くてしんどいことがあったらまた逃げるんだろうな。ダメな奴だ。」ずっと自分を責めていた。両親は、高校を転学することに大賛成だったし、転学したからといってお先真っ暗な人生が待っているわけではないと言っていた。結局は自分次第だから、大丈夫だと励ましてくれた。そう励まされて大丈夫だと思うことはほとんどなかった。なぜなら、両親は小学校から高校まで普通に通っていたからだ。私みたいに、途中で進路変更していないからだ。私と同じ経験をしたわけじゃないのに、大丈夫、と言われてもあまり説得力がない気がしていた。この選択が本当に正しかったのだろうか。悩みに悩んだ。妹は小学校も中学校も普通に通えているのに、私は小学校でプチ不登校になり、中学校で病気になって半分以上学校に行けなかった。高校は3年間通えると思っていたのに、たった1年半で通えなくなってしまった。姉妹での差にも苦しんだ。「みんなが普通にできていることが出来ない私は怠け者だと思われているんだろうな。」「妹さんは普通なのに、お姉さんは変わっている。」そんな風に周囲の人から見られている気がしてならなかった。普通に憧れていた。

しかし、今となっては、高校を転学したことは「逃げ」ではなかったと確信している。良い子に固執していた今までの自分をようやく変えることが出来る時が来ただけだ、と。そして、変わるためには通っていた高校ではダメだったということだと。ダメな奴では決してなかった。普通である必要も全くなかった。

弱い奴だと思っていたが、実はそうではなかった。勉強が出来なくなるほどショックを受けた模試でのE判定。どん底に突き落とされた気がした。それでも、少しずつ這い上がって、入試を戦い抜くことが出来た。そんな私は自分が思っていた以上にずっと強いのかもしれない。

受験に向けて勉強を進めていく中で気が付いたことがあった。それは、自分自身で考えて、選択し、進んでいくことの大切さとしんどさ。そして、敷かれたレールの上を歩くことの楽さだ。これらのことに気が付けたのも学校という組織から離れたからだと思う。ひとつの物の中心にいると外の世界を見ることが意外とできないのかもしれない。 自分の心の変化は入試直前のわずか2週間で急激に進んだ気がする。それが何故なのかは正直分からないが、おそらく、今現在の自分を受け入れたことでものすごく楽になったことを実感したからだと思う。

入試が終わって1か月が過ぎた今、私は子供であることを楽しんでいる。家で「両親のために…。」と思って手伝いをすることもなくなった。ご飯を作ってもらい、洗濯をしてもらい、お風呂を洗ってもらい…。「こんなに至れり尽くせりの時間はもう今しかない。これこそ、子供の特権だ。」そう思って両親に甘えている。休みの日は朝から晩までうだうだと過ごしている。こんな姿や考えは1年半前の自分からは想像もできなかった。本当に別人になった気がしてならない。

● 明日への一歩

いよいよ学びの森を卒業する。明日から(正確には4月から)新しい道で1人、歩んでいく。学びの森に来る前の自分だったら、毎日不安で、不安でいっぱいだったはずだ。だが、今の私は、不安を感じることがほぼゼロに近い。「なんとかなる。」そう思えるのだ。困っているときに、誰かに助けを求めることが出来るようになった。何事も完璧にこなすなんてことを意識する必要もない。優等生になんて、ならなくていい。毎日に、出会う人に、縁に、感謝の気持ちを持って目の前のことに集中する。それが出来たら、私はどこでだってやっていける気がする。

これから先、今よりももっともっと色々な人に出会って、刺激を受けて、自分の引き出しを増やしていきたい。将来どんな仕事に就くかは、まだ考えていない。ただ、学校のことで悩める学生の力になれる人になりたい、とは考えている。